Special Pages - 特設ページ

2011/05/04

憲法記念日に届いた平和活動家タネモリタカシさんの言葉

2011年5月3日 憲法記念日

広島原爆の被爆者で、アメリカに渡った平和活動家タネモリタカシさんから憲法記念日の今日、メールが届く。メールには、「私の敵は何か」というタイトルで、昨夜遅くに眠れずに書き上げたというタネモリさんの気持ちが綴られていた。それを、静かにタクシーの中で読んでいる。

いま突然激しくなり始めた雨が、タネモリさんの慟哭の叫びのように聞こえてきた。

彼の文の題名は「WHAT IS MY ENEMY」だった。単純明快「私の敵は何か」だ。平和活動家の彼にとっての敵とは「何」だろう。タネモリさんは溢れ出す思いを書き綴った。

文の内容の殆どは、ビランディン殺害について歓喜に包まれるアメリカのことだった。地元のカリフォルニアで、間近でその声を聞き、姿を見ている彼は、言い様のない感情に囚われ、眠れない夜を過ごしたという。なぜか。

それは彼の生い立ちにある。

タネモリさんは7歳の時、広島への原爆投下で、家族の殆どを失った。彼は「より多くの命が失われるのを防ぐために行った」とするアメリカのレトリックを許せず、17の時に単身アメリカに渡った。復讐のために。

タネモリさんは、アメリカの何もかもが許せなかった。戦争に戦争を重ねてもそれを正当化し続けるレトリック、それを国を挙げて支援する国民性、正義のないところに大義を作り上げ最終的に自らの行いこそ正義だとする傲慢さ。

すべて、許せなかった。

彼がアメリカに渡ったのは、そうしたアメリカのレトリックや偽りの正義を自ら身を持って示し、糾弾するためだった。そしてそのために活動した。戦後すぐの時期で日本人が渡って何かを成し遂げることは、決して容易ではなかった。それでも彼は敵地アメリカに留まった。

戦後60年以上が経ったいまも、彼はアメリカに留まっている。そして、活動を続けている。だが、それは広島の惨状を訴えるためにではない。アメリカを追求するためでもない。アメリカに復讐するためでもない。

アメリカを赦すためだ。

彼はいまとなっては、アメリカを憎み続けてきた自分を恥じている。ただし、そんな自分を赦してもいる。アメリカを赦せるように、自分も赦している。そうしなければ、憎しみに囚われて自分自身が忌むべき存在になってしまうからだ。

いや、そうなってしまった過去があるからこそ、そういう自分を捨てた。

アメリカにいる間、タネモリさんは数々の「アメリカの戦争」を見てきた。アフガン戦争もそのひとつだった。そしてその戦端を開いた911も、アメリカ国民として経験した。アメリカを赦せるようになった彼は、911の時に祖国のために泣いた。そして…502が訪れた。

ビンラディンが殺された。

911の戦争の首謀者が、死んだ。911で亡くなった人々の仇討ちがなされた。彼らの死が報われた。そして自分の周辺は歓喜に湧くアメリカ国民で溢れている―そんな状況が、なぜか彼を眠れなくさせていた。なぜだろう?

それは、オバマ大統領の演説でまた「歴史的な瞬間」という言葉が呟かれたから。またアメリカは、自らの正義が示されたと、誇りに思っていて、それが国民に伝搬して、アメリカ中が「正義は為された!」と歓喜に沸いていたから。

半世紀かけてアメリカを赦すことを決めたタネモリさんでも、違和感を感じた

眠れぬほど、アメリカを否定したい思いと、自分が培った赦しの心を否定したくない思いとの間でせめぎあって、タネモリさんはこうそれを解決した。

これはひとつの「終着点」だったんだ。

アメリカの行き場のない怒りが、ひとりのテロ指導者を葬り去ったことで、一時終着を見ることができた。そして、これ以上あのような惨劇を目の当たりにすることを恐れないで済むんだ。罪のない人たちの命が失われなくなる。「そのこと」を喜ぼうと。

眠れないほどの葛藤を抱えたタネモリさんが出した、ひとつの出来事に対する彼なりの受け止め方の表明だった。そしてそれを、彼は、誰かに伝えたくて、言葉に残した。簡単に赦せるものではない。簡単に受け入れられることではない。でも受け入れた。赦した。

彼なりの平和哲学を貫いた。その、訴えだった。

最後に彼は、こんな言葉をしたためた。

"NO MATTER WHAT CIRCUMSTANCES, NO MATTER HOW MUCH WE THINK WE ARE DIFFERENT AND THEREFORE DESERVE TO SEEK REVENGE, WE CAN ALL CHOOSE TO FORGIVE!"
「どんな状況に置かれても、そしてどんなに(彼らが)自分達とは違うと思い、だから自分には(彼らに)復讐する権利があると思っても、私たちは(彼らを)常に赦すことを選ぶことができる」

広島で原爆に被爆し、家族の殆どを失い、復讐のためにアメリカに渡り、その生涯を平和活動のために費やした、タネモリタカシさんの言葉

平和省という、平和を司る省を創設する活動の会議に向かう私にとって、この言葉はどうしても、伝えたい言葉でした。皆さんともこうして共有することができて、よかったと思います。

終わり。

-----

タネモリタカシさんのプロフィール
出演映画『ヒロシマ・ナガサキ・ダウンロード』での案内

胤森貴士トーマス(タネモリタカシ)
広島市出身の詩人、画家、平和活動家。
7歳の時、爆心地から1.2キロで被爆し、両親、妹、祖母を失う。
17歳で親の仇を誓い、渡米。長年の苦しみを経て、怒りから赦しへ転換する。
現在、カリフォルニア州バークレー に盲導犬ユキちゃんと暮す。