Special Pages - 特設ページ

2014/06/23

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑩解釈改憲の問題の本質

2014/6/22のインタビュー記事で民主党の岡田克也最高顧問が語った内容は、政府の些末な議論の中で失われ、忘れ去られようとしている解釈改憲問題の本質を突いている。それは、新解釈により平和憲法の基本原則が損なわれているということだ。つまり、政府は解釈改憲の域を超えた新解釈を認めさせようとしている。

「個別的自衛権は日本自身が侵略を受けた、攻撃を受けたというときに反撃する権利ですね。集団的自衛権が認められるとしたら、それに匹敵するような事態であることが、憲法が許容する大前提」岡田克也民主党最高顧問
https://www.facebook.com/GivingTreeIntnl/posts/10152623179292089

基本認識:自衛隊や日米安保は違憲ではない


自衛隊の発足と日米安保の締結後、歴代政府は①自衛隊が憲法が禁止する「戦力」ではないこと、そして②日米安保が双務的ではなく、かつ、憲法が禁止する集団的自衛の権利を認めるものではないことを政府見解として維持してきた。

自衛隊と安保の存在自体を違憲とする考えもあるが、個別的自衛権は国家固有の権利であるだけでなく、国際法上、主権国家としての要件を備えるために履行が必要な義務でもある。即ち、領土・国民・機能する政府の三要件である。

「機能する政府」とは、領土と国民を保護する機能を有する政体を意味する。即ち、主権国家は何らかの手段で領土と国民を守れなければらない。我が国は、専守防衛に基づく国防に必要な最低限の実力組織として自衛隊を保有し、これを補完する勢力として在日米軍を擁している。

日米安保は、我が国の国防力を補完及び監視するために、旧連合国である米国が我が国と締結した片務的な安全保障条約である。米軍側に我が国を守る一方的な役割が課せられるため、その代価として我が国は在日米軍の駐留費の大半を負担するなどして、米国に格別な配慮を行ってきた。

違憲性が疑われる現在の自衛隊の活動


日米安保や自衛隊の位置付けは、国際情勢と米国の世界戦略の変遷の中で同様に変わってきた。50年に勃発した朝鮮戦争では、自衛隊の前身である保安隊が掃海作業のため極秘裏に派遣され死傷者まで出して戦線に貢献した。冷戦終結後、自衛隊の役割をさらに変容した。

01年の対米同時多発テロにより、自衛隊は「対テロ戦争」という非対称的な、新たな形の世界規模の戦争に巻き込まれていくことになった。91年の湾岸戦争には自衛隊派兵禁止の原則を固持し経済支援に終始したが、これを国際的に非難された結果、対テロ戦争では軍事的貢献も行うようになった。

これに先立ち92年にはPKO協力法が成立し自衛隊の本来任務に国防・災害救援に加えて国際平和協力が盛り込まれていた。政府はこのPKOに限定されている筈の国際平和協力任務の解釈を徐々に拡大し、特措法により安保理決議に基づく集団安全保障措置に参加するようになった。

対テロ戦争の口火を切った01年のアフガン戦争で我が国は、直接の戦闘行為に加担する派兵は行わないものの、インド洋で個別手自衛権の行使の下に展開される米英の軍事作戦「不朽の自由作戦」の“後方支援”を行うことで、事実上、軍事兵站支援を通じて自衛戦争に加担した。

政府はインド洋の給油支援は「非戦闘地域」で行われているものであり、また国連に“容認”された活動であることから、憲法が禁じる「武力行使との一体化」はないとして正当化した。そして03年にはイラク戦争後、同様の論理で初めて紛争地域に自衛隊を派遣した。

このように、自衛隊の本来任務は国防・災害救援・国際平和協力の筈なのに、憲法上疑義のある国際活動に政府は次々と特措法を制定して参加するようになり、本来の任務と自衛隊が行う活動の間が乖離するようなってきたのである。

その間、日米安保は、北朝鮮によるミサイル演習への共同対処(09年)や、東日本大震災における米軍の災害救援活動等(11年)の形で有意に機能するものとして現れたが、一方で自衛隊が果たす役割と機能は、米国の世界戦略の中で激しく変容していった。

現時点で既に、自衛隊の活動は数々の特措法により、現行法体系が定める以上の範囲に拡がっている。

たとえば09年には初めて、恒久法としての海賊対処法により、ソマリア沖海賊対処のために海上自衛隊の護衛艦が派遣され、各国部隊との連携を深め、11年にはその活動拠点として初めてジプチに独自の基地を建設するに至った。

海自の派遣と基地建設は全て、国連安保理決議に基づくものだが、本来自衛隊が憲法上許されている行為を逸脱しているという議論は、国会内では経済的・人道的利益優先のためという否定しがたい理由により封殺された。

09年の政権交代後、インド洋の給油支援は、武力行使との一体化の懸念のためその効力を停止されたが、09年政権交代直前に自公政権により制定された海賊対処法は依然有効なまま現在に至る。

このように、自衛隊や日米安保そのものは違憲でなくても、その運用が違憲である可能性のある状態が続いているのである。現在の解釈改憲論議は、その流れの中で起きている暴挙なのであることを認識する必要がある。

変化を追認・拡大する暴挙を止められるのは司法のみか


自衛隊の機能と役割が既に憲法を逸脱して変容する中で、追認的にこれをより一層拡大しようとするのが、現在の議論である。つまり国防等の本来任務のみならず、自衛隊の役割を超えた範囲で武力行使を認めさせようとする議論なのである。

現在の議論は、解釈改憲の域を離れ、国際紛争解決のための武力行使を禁じ、唯一国防のためのみに自衛権の行使を認める憲法の原則を侵している。この重大な侵害行為を、時の政府に任ぜられた内閣法制局のトップは合憲であるとして追認している――立憲主義の崩壊である。

内閣法制局容認の閣議決定では、法制化の審議の過程で違憲立法審査権を持つ最高裁は介入できない。審査権は法案ではなく、成立・施行後の法律に対して行われるものだから、事実上司法の歯止めは機能しない。閣議決定による解釈改憲は、立憲主義の弱点を突いた暴挙なのである。

「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人の一人である加藤朗教授が、「集団的自衛権容認反対派は敗北した」と最新のブログで漏らしていた。政府の個別具体的な事例を個別具体的に各個撃破できなかったから、結果的に政府を利することになり、統一を欠いた国民的な反対運動は挫折に終わるという。

しかし、内閣法制局は内閣内のチェック機能であり、最終的な違憲審査権は独立した司法の最高裁にある。

最高裁の改選人事については、先の総選挙で有権者である私たち国民が介入している。しかし、有権者は果たして賢明な選択を行ったのであろうか。

次期国会で、恐らく改造内閣により関連閣法が全て国会を通過したとき、あらためて、私たち有権者の判断が賢明であったか否かが形となって現れる。

それまでに何ができることはあるのか、私は最後まで考え続けたいと思う。

長文のご精読をありがとうございました。

2014/06/22

長編コラム『些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと』シリーズ全篇の紹介:概論と各論



概論


第二次安倍晋三内閣は、これまでの政府解釈で日本国憲法第九条により禁止されていると解釈されてきた集団的自衛権を容認するのが合憲であるという新解釈を、国会閉会後の7月初旬までに閣議決定する予定だという。



これは事実上の解釈改憲で、これにより我が国は、同盟国の自衛のための戦争に巻き込まれる蓋然性が高まる。また国連の集団安全保障措置においても、法手続的には合法であっても、我が国の憲法上疑義の残る国際紛争に荷担することになりかねない。

閣議決定が行われるそのぎりぎりまで、与党内の協議が続けられるが、自民党側が譲らない「権利容認」について「限定容認」で妥協した公明党が、最後まで抵抗し続けるとは考えにくい。

もし公明党が土壇場で協議を決裂させるようなことがあれば、はじめて公明党が「ストッパー」としての役割を満足に果たしたことになるだろう。

だが、希望的観測は禁物である。

歴代政府がこれまで固持してきた憲法解釈は、同盟国が関わってきた数々の戦争から我が国が参戦することを防いできた。

みえないばくだんさんのツイートより


湾岸戦争では我が国は原則を守って参戦を拒否し、経済支援のみを行った。ところが、このことに対する国際的批判の高まりと評価の低迷を危惧し、歴代政府は徐々に、国是をねじ曲げ、本来憲法上許されない国際紛争解決のための自衛隊の海外派遣を実施してきた。

PKO協力法の制定に始まり、防衛省の格上げ、イラク戦争、アフガン戦争、ソマリア海賊対処など、国際紛争に限らず、我が国は国際的な軍事活動への参画姿勢を強めていった。


我が国が国際社会の責任ある一員として、国連や地域的な国際平和・治安維持活動に参画するのは歓迎すべきことであるし、積極的に推進すべきことだと思う。

だが、それには我が国独自の原則が常に適用され、我が国はこの原則を逸脱しないという姿勢を国内外に示す必要がある。しかし、これまでの我が国の足跡は、我が国がいかにして原則を形骸化させてきたことを物語っている。
憲法第9条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る- 国立国会図書館政治議会課憲法室(レファレンス 2011.11)

時代の要請とともに、国は変容する。しかし、憲政の成立来以、国民の精神の礎となった精神は、時の政府の選択によって変節してはならない。


現在の時の政府は、国民不在の中、国会の監視も機能しない中で、一部の権力者たちの会合で、これを行おうとしている。

しかも、表面的な、些末な議論しか行わずに。

以下の十数編のコラムは、そうした些末な議論の内容を一つ一つ取り上げ、その問題点、錯誤、国際社会における現代論的解釈などを交え、時の権力が行おうとしている暴挙に光を当てようとするものである。

皆さんの議論の一助となることを願って

2014年6月22日

元外交安全保障政策担当
私設参議院議院秘書
勝見 貴弘

各論


  1. 「丸腰の集団的自衛権行使」の可能性
  2. 文民を保護する国際責任と「支え合う安全保障」という第三の選択肢
  3. 「ユニット・セルフ・ディフェンス」の実態Ⅰ(概要編)
  4. 「ユニット・セルフ・ディフェンス」の実態Ⅱ(詳細編)
  5. 政府の主張する「共同部隊防護」の幻想
  6. 感情に訴える「邦人救出」論の虚構
  7. 国連憲章上の由来と国連システム下のリスク
  8. 機雷除去行為と容認要件との整合性
  9. 国連集団安保参加に集団的自衛権は必要ない
  10. 解釈改憲の問題の本質
  11. 集団的自衛権と集団安全保障の違いとその悪用の歴史
  12. 「自衛戦争」はどこから「侵略戦争」になるのか
  13. 解釈改憲以上に危険なその「中身」
  14. FINAL(意見総括)

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないことFINAL(意見総括)

集団的自衛権を巡る私見をこれまで数編に渡って述べてきたが、政府が閣議決定により集団的自衛権のみを容認することを国是とすることを決める動きがある中で、あらためて本件に関するこれまでの意見を総括してみようと思う。

まず、集団的自衛権は必要ない。単独的自衛権(武器使用基準等)の拡大で対処できる。そのロジックは、部隊防護をより強固なものとして自衛官及び共同任務に関わる多国籍要員を防護する国際責任を果たすためだ。

我が国が国際平和活動等に積極的に貢献する必要性は否定しない。多額の国連分担金を負担しがら、相応の人的貢献を行ってこなかった過去の姿勢は正すべきだと思う。そのために確立された国際ルールに基づいて各国と歩を揃えることは必要。そのための武器使用基準の拡大はやむなしと考える。

一方、国連の活動を離れたところで二国間或いは多国間で集団的自衛の権利を行使すべきという問題については、近年の国際紛争の歴史をみても、もはや時代錯誤であると断じざるを得ない

冷戦下に作られた軍事同盟による集団的自衛の枠組みは、既にNATOを勝者として残して崩壊している。これを再構築する愚を我が国が率先して行うことをよしとはしない。

米国と密な同盟関係にあることは、米国の戦争に引きずり込まれることを意味する。アフガン戦争やイラク戦争がその冠たる例である。

米国は、アフガンについては個別的自衛権の行使、イラクについては国際平和への脅威として、国連決議に基づく多国籍軍を結成しようとしたが、後者については国際社会はその正当性を認めなかった。

国際社会が最後まで認めなかった対イラク武力行使について、我が国は当初から確たる根拠もなしに賛成し、やっと国連に“戦闘”終結が認められる段になって復興支援と称して紛争地に初めて自衛隊の派遣を行った。これが我が国の安全保障に関わる判断と行動の実績である。

アフガン戦争においては、我が国は武力行使との一体化とみなされる集団的自衛権の行使に基づく米英の軍事作戦に対する海上補給支援を行う形で戦争行為に加担した。政権交代によりこの憲法違反の疑義のある活動は停止されたが、ほぼ10年間この活動は疑義のあるまま続けられてきた。

このように我が国は、過去2つの国際紛争において正当性に疑義のある自衛隊派遣を行ってきた。一つは国際社会に認められない事由ではじめられた武力行使への加担行為であり、一つは個別的自衛権に基づく武力行使への加担行為であった。これが、我が国政府の判断力である。

集団的自衛権の容認に関する我が国政府の解釈は、個別的自衛権のそれと全く変わらない。それでは正に、これまでの憲法解釈で違憲であるとされてきた行為に違憲である論理的根拠がなかったことになる。即ち、政府解釈の撤回である。

従来の解釈の撤回を是とすることを閣議決定する現行の第二次安倍改造内閣の論拠は、未だ明確に見えてこない。総論としての行使容認を補完する各論を、整合性の問題でことごとく取り下げておきながら、それでも総論としては成立するというのは論理の破綻である。

各論において政府は15の事例を提示し、それぞれの事例により集団的自衛権の行使が訴求されることを行使容認の理由づけとした。にもかかわらず、政府はこれら15事例に基づく各論の確定を行わずにただ、行使容認だけが認められるべきだとしているのである。

行使容認に関する従来の政府解釈を撤回する論拠が、そもそも個別的自衛権のみを認める(よって集団的自衛権を否定する)政府解釈に依拠するというのも、なんとも奇怪である。 そこには何の論理性も合理性も見いだせない。このような重大な方針転換の決定を許容してよいのか。よいわけがない。

第二次安倍改造内閣によるこの拙速な動きははからずしも、結果的に政府の当初の考えがただ「集団的自衛権は必要であること」をなんとしても認めさせることの一点に集約されており、その理由は後付け、こじつけと場当たり的なものでしかないことを明らかにした。

血税を使って“有識者”を集め、長きにわたる時間と日数を要しても、論理的整合性のある政府見解を出すことができない。こんな政府に、我々国民は、国家の重大な方針転換を委ねている。このこと自体が、国家の安全保障上の危機といえるだろう。

国会で強行採決を辞さない与党率いる政府が、世論や与野党内の反対を押し切って閣議決定を行うことは、もはや既定の事実だろう。ただし、今回は閣議決定が精いっぱいで、閣議決定に基づく法改正などの機会は次期国会に持ち越される。

国民よ、目を見開け。煽情的に他国の脅威を煽り、なんらこれを平和的に解決しようとしないで、国防の増強や、解釈改憲により有事の対処姿勢の強化のみを図る政府を信頼してはならない。政府と、政府に連なるメディアの報道を鵜呑みにしてはならない。

過去二つの国際紛争において、判断を誤ってきた政権与党の判断を信頼してはならない。現行の第二次安倍内閣の為すことを、追認してはならない。国民の総意として、政府の閣議決定の法制化への反対を有効な行動で示せるのは、次期国会まで。それまでに理論武装しなければならない。

70年余平和主義を掲げ貫いてきた平和立国として、国際平和と安定のために"積極的に”寄与するのは経済大国としての相応の責任履行である。そのために、必要最低限の武器使用が我が自衛隊に認められることには私は異議を唱えない。

が、自衛のための最低限の武器使用を逸脱して更なる不安定化をもたらすような国際紛争にまで“積極的”に寄与することは、これは平和主義の理念に悖り、国民の総意に反するものと信じる。よって、集団的自衛権の行使は断じて容認できない。

私は、旧時代の集団的自衛権の発想から離れて次世代の集団安全保障を構想必要があり、それは地域安全保障の形で具体化されるべきだと思う。幾分かの逸脱はありながらも平和主義を貫いてきた我が国にこそ、この新しい「支え合う安全保障」を先導できるのではないかと思う。

但し、現行政府には無理だが。


以上、ここまでの長文の精読を感謝します。

2014/06/21

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑨国連集団安保参加に集団的自衛権は必要ない

ここのところ、ほぼ毎日の割合で何かを書くネタを提供してくれる安倍政権だが、今度は国連安全保障措置における集団的自衛権の行使容認だとか。結局、この政権は何がしたくて集団的自衛権にこれほどまでに固執するのだろう。



これまでの焦点は国連PKOへの"積極的"参加だった筈




これまでのシリーズでも述べてきたが、国連憲章七章に基づく集団安全保障措置には、経済制裁等の非軍事的制裁と武力行使等の軍事的制裁がある。



このどれにも属さないのが、PKO(国連平和維持活動)で、これは強制力のある措置ではなく、あくまで対象国の同意を得て実施される。治安維持活動である。



つまり、国連PKOは法的には憲章7章下の活動ではなく「武力行使」でもない。故に「6.5章に基づく活動などと言われているが、憲章起草時にPKOの想定がなかったのだから仕方がない。



国連憲章はこれまで殆ど改正されたことがなく、安保理の構成や常設機関などは変わってきたが、安全保障措置に関わる事項は改正されていない。



この国連PKOに参加するに当たって、我が国は小泉政権時代にPKO協力法を定め、PKO参加5原則を設けて活動に参加してきた。このPKO参加五原則のうちの1つが、はじめて海外に派遣する自衛隊のROE(部隊行動基準=交戦規定)となった。



その五原則とは、次のとおり。


1. 紛争当事者の間で停戦合意が成立していること。
2. 当該平和維持隊が活動する地域の属する国を含む紛争当事者が当該平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
3. 当該平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
4. 上記の基本方針のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は、撤収することが出来ること。
5. 武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること。

この五番目の原則が、PKOにおけるROEに相当する。ただしこれは、日本独自のものではなく、国連のUN-SROE(標準ROE)も専守防衛を基本としているため、日本のROEは国連SROEと合致している。



これまで我が国は、このUN-SROEを遵守しつつ国連PKO活動に参加してきた。ただ、激化する紛争情勢と、PKO及び国連要員の死傷者が増加する中で、国連SROEは事態のレベルに応じてカスタム化されるようになった。



つまり、事態によっては、日本のPKO原則そのままの運用では参加できないものが増えてきた。これがいわゆる、「複合型の国連平和維持活動」といわれるものだ。



複合型とは、従来の「紛争後の典型的任務」のほかに「安定化」「平和の定着」「長期的な復興と開発」等の任務が含まれるもので、場合によっては「正式な和平合意のない状態で、国家当局からの要請を受け、正当な政府への移行を支援するために展開されるもの」もある。



「国連平和維持活動のミッション全体の軍事要素に適用される交戦規則(ROE)と、警察要素に適用される武力行使指令(DUF)では、各種の状況において行使できる武力のレベル、各レベルでの武力の用い方のほか、司令官から取り付けるべき承認があれば、これについても明記される。」(国際連合平和維持活動局フィールド支援局『国連平和維持活動 原則と指針 2008年』より)





政府自民党は当初、この「複合的な国連平和維持活動」への参加をより“積極的”に行うため、自衛隊の部隊行動基準の見直し、ひいては自衛隊法、PKO協力法の改正を目指していた。



政府の当初の主張は、これら法改正を行うための原則として、集団的自衛権の容認が必要であるということだったが、これまで本シリーズで再三述べてきたように、部隊行動基準の見直しのために集団的自衛権を認める必要はない。



民間法制懇をはじめ、多くの識者が同様のことを指摘したためか、政府自民党はこの主張を閣議決定に盛り込むことは取りやめたらしい。



国連PKOではない安全保障措置への参加は何を意味するか




そこにきて、今度は部隊行動基準の見直しに留まらない軍事的強制措置としての武力行使への参加のために、集団的自衛権が必要だと主張を切り替えてきた。



なぜ与党間協議がこじれている今になって、と思うかもしれないが、実際はこれが本丸だったのだろうと考えれば、辻褄が合う。



つまり、憲章6.5章に基づく活動といわれる複合型国連PKOへの対応は部隊行動基準関連法制の改正で対応できるが、更に憲章7章に基づく軍事的強制措置に“積極的に”参加するには、原則を見直すしかない=集団的自衛権を認めるしかない、という論法だ。



ここで、国連の皮を被った多国籍軍による武力行使に参加したい(させたい)日米双方の思惑が合致する。いい例が、これまでシリーズでも幾度も例に挙げてきた、アフガニスタンにおける国際(「国連」ではない)治安支援部隊ISAFの存在だ。



ISAFの元は、個別的及び集団的自衛権に基づきアフガン攻撃を開始した米英軍とそれに協力する主にNATO諸国から構成される多国籍有志国連合軍だ。



この有志国連合軍による大規模戦闘が終了し、タリバン政権が転覆されてから、国際会議が開かれ、アフガンの暫定政府の要請で設置が認められたのがISAFなのだ。



ISAFは、この国際会議での合意(ボン合意)を経て、国連安保理決議により“追認”され、正式にその発足と武力行使の権限を安保理に認められた。厳密には、安保理が「設置」した部隊ではないのである。



ISAFはあくまで有志国連合軍なので、安保理はISAFに対して国連PKOのようなSROEを適用することはできない。かわりにISAFは米英主導からNATO主導へと切り替わったことで、NATOのROEが適用されるようになる。



当初集団的自衛権の行使を宣言したNATOによるISAFは発足したが、実は米英軍におる「不朽の自由作戦(OEF)」も同時並行して展開していた。



つまり、アフガンでは国連に「武力行使」を認められたISAFの「活動」と国連に主権の行使として認められたOEFという軍事作戦が並行して進められているのである(今も)。



政府自民党が主張する「国連の武力行使」への参加とはつまり、こうした国連が“追認”した多国籍軍による武力行使も含まれるのである。



つまり、国連憲章第51条の規定をなぞれば、米英主導のOEFが国家固有の個別的及び集団的自衛権の行使で、安保理が「限定的に」自衛権行使を認めるなかで「決定した行動」が、ISAFによる武力行使、という整理になる。


第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、
安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。



政府自民党が「国連の武力行使」に参加するために集団的自衛権が必要と主張する背景には、憲章第51条をなぞるように実施された安保理による行動の事例があるからなのである。



つまり、今後もこうした事例が起きた時に、自衛隊が“積極的に”その行動に関わり、軍事行動の中心となる米軍他各国軍の連合部隊を支援或いは共同作戦を展開するためである。



これを認めたら、成立過程に疑義のあるISAFのような事例を模範として、集団的自衛権に基づく際限のない武力行使に日本が参加できるようになる。



これは現実的な可能性だ。



端的にいえば、政府自民党はISAFのような部隊に参加したいのである。米国の軍事行動に協力したくてしょうがないのだ。





集団安全保障措置への参加は可能




当初安倍首相は、国連の集団安全保障措置への参加に「憲法上の制約はない」と主張した政府内閣法制懇の報告に対し、「これまでの政府の憲法解釈と論理的に整合せず、 (報告書の)考え方は採用できない」と明言していた。(20日 時事)



これまでのシリーズでも紹介したとおり、元民主党の小沢代表もかつて、「政権交代した暁にはISAFに参加する」と明言していた。ただし、現在の自民党政権とは参加の目的も理由も異なる。

小沢元代表は、ISAFが国連安保理決議を経た活動であっても、「銃剣をもって人を治めることはできない」と、民生支援に限定することを明言した。この場合の民生支援とは、民軍連携で行われているISAFの地方復興部隊(PRT)への支援だった。つまり、戦闘行為には直接参加しない限定的な形の参加の意で、ISAFへの参加を表明した。



つまり小沢元代表は、憲法の範囲内で日本ができることに活動を限定した上で、それでも国連決議によりオーソライズされた活動であれば、日本の自衛隊もISAFのPRTに参加できるとしたのである。



当時、この主張について、武力行使への参加を拒絶する社民共産などの野党はおろか、与党の自民党からも「意味がない」として批判された。



その与党だった自民党がいま、ISAFのような部隊に“積極的に参加“するために、解釈改憲してまで集団的自衛権の行使を容認すべきとしているのだから、当時の議論がいかに論理を欠いたものであったかがわかる。



この議論の本質も、再三各シリーズで述べてきたとおり、単独的自衛権の話である。まず、PKOであろうと武力行使であろうと、それが正当な権限に基づき行われる安全保障措置であるならば、日本はこれに参加できる。これは、小沢元代表の主張と同様で、内閣安保法制懇の見解も正しい。



国連集団安全保障措置に基づく活動は、憲法が禁じる「国権の発動による国際紛争の解決」ではない。憲法が認める国際法により、唯一合法とされる集団安全保障(国際法や国連の規則に違反する加盟国に対する制裁措置)を実現する手段である。よって、これに参加することそれ自体は違憲でも違法ではない、というのが私がこれまで持論としてきた見解だ。

次に、参加にあたって集団的自衛権の行使を容認する必要はない。これは、単独的自衛の権利(共同部隊防護の権利)を認めることにより、即ち部隊行動基準等を見直し、法改正することで対応できる。法改正の前提として集団的自衛権を容認する必要はない、というのも私の見解だ。



まとめると、国連集団安全保障措置への参加は法制度の変更で可能だが、部隊運用のために集団的自衛権の行使を認める必要はない、ということである。なぜなら、たとえばISAFのような多国籍軍であれば、NATOのSROEにより拘束されることで、これを逸脱する行為はとれなくなるからだ。



安倍自公政権の前科




しかし、そもそも集団的自衛権に基づく行動である場合はどうか。つまり、アフガンの場合は米英主導のOEFに参加できたのだろうか。



ここで面白い事例がある。



日本は既にこのOEFに参加しているのである。「後方支援」の名目で。



なぜ当時、自公政権が国連決議により認められたISAFではなくOEFのみに参加し続けたのかは理解に苦しむが、このOEFの海上阻止活動(MIO)に、自公党政権は給油支援という形で参加した。ただし指揮権は別で、OEF-MIOを統括する統合任務部隊(JTF)の指揮下には入らなかった。理由は、「指揮下に入ると武力行使との一体化が懸念される」からだという。



はて、珍妙な。



個別的・集団的自衛権の行使としての武力行使と一体である軍事作戦OEFの海上兵站支援という名の“後方支援”を行っているというに、それが、指揮権が異なるだけで武力行使と一体化していないといえるのだろうか。



ここで更に面白いのが、当時の自民党政府(第一次安倍内閣)が、OEF-MIOへの参加の根拠とした物である。それは、ISAFの活動の継続を認める安保理決議だった。その「本文」ではなく「前文」に、OEF-MIOへの「謝意」が記載されたことから、OEF-MIOは国連に認められた活動であると強弁したのである。



さらにこの後、外務省はカナダ大使主催の晩餐会で日本のOEF-MIOへの貢献が国際的に称賛・支持されているというパフォーマンスを行わせ、OEF-MIOへの参加は「必要」なのだいうことを政府寄りメディアを通じて喧伝した。



つまり、当時の安倍内閣は、個別的・集団的自衛権に基づく武力行使による軍事作戦への参加を、直接それとは関係ない国連決議の前文の解釈や国際社会の評価に基づき、正当化していたのである。集団的自衛権は、既に案に認められていたも同然なのである。



政府解釈で集団的自衛権が認められていない状況の中で、我が国は集団的自衛権に基づく軍事作戦に既に参加し、これを正当化するために国連決議や国際社会の「謝意」を盾に、「法律論」ではなく「必要論」で世論を欺いたのである。



これが安倍自公政権の前科である。



ちなみに、この憲法上「武力行使との一体化」の点で疑義のある「後方支援」活動は、政権交代後、民主党政権によって完全に停止された。



安全保障基本法による新たな縛りが必要




憲法上の権利がなくても法を曲げて集団的自衛権の行使に加担したことのある安倍政権が、今度は憲法上の権利であるという新解釈のもとに、より本格的に集団的自衛権を自ら行使できるようにしようとしている。それが、事の実態である。



ISAFのような疑義のある多国籍軍活動でも、米英仏等が主導で安保理で認めてしまえば、それは合法な国際行動となる。そうなると、日本は厳格な参加原則を設けなければ、無原則に疑義のある活動に関与することになる。



安保理決議に基づく集団安保措置への参加が合憲であり、そのために集団的自衛権の容認は必要ないという整理ならば、集団的自衛権の疑義のある活動であっても、権利なしで参加できることになってしまう。これは、国際法上巧みに合法とされていても、憲法上は合憲と認めるべきではない。



したがって、国連安保措置への参加であっても、どういった根拠に基づく活動なら参加できて、どういった根拠に基づく活動なら参加できないかという参加基準を独自に設ける必要がある。勿論、現行憲法解釈が維持される前提で。



たとえば、「国連安保理決議によって認められる活動であっても、その発端となる行動が国家の個別的及び集団的自衛権の行使に拠るものであった場合は、我が国は参加をしない。」というようなものだ。



この位の独自の参加原則を設けて初めて、我が国は堂々と国連の集団安全保障に対する独自の貢献を行うことができる。こうした原則を含めた「安全保障基本法」のようなもので、現行憲法下で行える行動を適切に管理・統制する必要がある。



こうしたアウトラインやグランドデザインがない中で、原則としても、必要要件としても、集団的自衛権の行使を容認する必要はない。権利の容認なしに、まずできる法整備を行い、できる範囲の支援を行えばよい。



集団的自衛権容認の閣議決定等よりも、必要なのは閣法としての「安全保障基本法」の国会提出と審議である。この閣法を成立させるにあたっても、集団的自衛権を容認する必要はない。



以上、ここまで長文の精読を感謝します。





付録:国連集団安全保障参加三原則(私案)


我が国は、国際平和と安全を守る目的で国連安全保障理事会決議に基づいて行われる集団安全保障措置(軍事的強制措置)に積極的に参加する。但し、参加に当たっては次の要件を検討し、次の要件のいずれかに該当する活動である場合は参加しない。
1. 国際紛争の解決のための武力行使に位置づけられる他国の個別的及び集団的自衛権に基づく武力行使が前提である活動の場合。
2. 我が国が定める部隊行動基準を逸脱する交戦規則が適用される活動である場合。
3. 国連安保理決議が定めた目的に関わらず、当該活動の結果及び目的が、政府転覆など他国主権を侵害する意図を伴うと見られる合理的な理由がある場合。

長編コラム:些末な集団的自衛権議論が触れないこと⑧機雷除去行為と容認要件との整合性


「首相はホルムズ海峡が機雷で封鎖されれば、「経済的なパニックが起き、日本は決定的に被害を受ける」と指摘する。首相の経済政策「アベノミクス」を成功させるためにも安定したエネルギー供給が不可欠となる。」(2014.6.18付産経

政府の理由は自ら定める要件と矛盾する 


政府寄りの報道によると、進行中の集団的自衛権の容認を巡る与党内協議で、安倍首相は機雷除去について一切譲歩するつもりはないらしい。理由は、「国家存立の危機」でも「急迫不正の侵害」でもなく、「エネルギーの安定供給」や「アベノミクスの成功に必要だから」だという。

それでは、現在暫定合意されている新政府解釈による集団的自衛権容認の前提にすら見合わない。

つまり、安倍首相は自ら定めた要件と矛盾した主張を最重視している。

「エネルギーの安定供給」はどの国にとっても重要な課題である。

この前提には同意する。

が、 しかし。かつてイランによりホルムズ海峡が封鎖される危機が生じたことがあったが、我が国でエネルギー危機は起きていない。それは「ぎりぎりの線」でエネ ルギー備蓄や迂回ルート等により確保できたことによるものなのかもしれない。また、それは高負荷な選択だったのかもしれない。

だが、「国家の存立」に影響しなかったのは事実だ。

つまり、政府の目指す「エネルギーの安定供給」を目指す上での集団的自衛権行使の容認は、エネルギー輸送コストの高負荷をなくすための経済的配慮としての政策なのである。

要は、これまでなんとか迂回ルートや備蓄利用で国内でやりくりしてきたが、それが貿易支出を圧迫し、国内産業に影響し、国際競争力を削いできた。有事にこれ以上のリスクは抱えきれない、というのが本当のところの理由だ。

経済的利便性の改善を、「国家存立の危機」に準えているのである。これは詭弁だ。

エネルギー関連の財政コストや経済性が理由の集団的自衛権の行使は、政府自ら定める行使の要件と矛盾する。
自衛権は、「武力行使に対する自衛」のための国家固有の権利であって、「経済的危機」からの国益保護のための権利ではないのである。

政府もその解釈の擁護者も、そこをはき違えてしまっている。


海洋航行の安全確保は「集団安全保障」と「共同部隊防護」により成り立っている 


国家経済を理由に集団的自衛権を行使できるような世界なら、集団安全保障は成り立たない。

集団安全保障は、何も国連による軍事・非軍事的制裁措置のみを指すのではない。全体として、国際法治により集団の安全を保障する体制なのである。これには、海洋の安全な航行も含まれる。

海洋の安全な航行の権利は、国連海洋法条約により国家固有の権利として保障されている。我が国は近年、この条約に加盟し、同条約の庇護下にある。

その他にも国連の外の枠組ではあるが、地域安全保障の一環として米国が主導するPSI(Proliferation Security Initiative:軍縮・不拡散. 拡散に対する安全保障構想)に基づく活動がある。

外務省曰く、「国際社会の平和と安定に対する脅威である大量破壊兵器・ミサイル及びそれらの関連物資の拡散を阻止するために、国際法・各国国内法の範囲内で、参加国が共同してとりうる移転及び輸送の阻止のための措置を検討・実践する」ための国際的な取組みだ。

米ブッシュ政権が提唱して発足して以来、10年以上の歴史を持つこの活動に、我が国は積極的に参加してきており、外務省曰く「各国が開催する殆ど全ての訓練に参加している」。

安倍政権は、自ら掲げる「積極的平和主義」推進政策に基づき、このPSI活動への「積極的な貢献」の強化を目指している。その中で、軍事的貢献を拡大するために、集団的自衛権行使の容認を推進しているのである。

これも、米国による要請であるが、活動は集団的自衛のもとに行われているのではなく、国連を離れた(安保理決議を必要としない)平時の集団安全保障活動の一環として行われているのである。

この活動の中で集団的自衛が必要になるとすれば、それは戦略レベルでは参加国間での単独的自衛権(unit self-defense)の行使、戦術レベルでは共同部隊防護(force protection)により成り立つ。国家レベルの集団的自衛権の行使容認は必要ない。

この共同部隊防護を実現するには、たしかに現状の部隊行動規則(ROE=交戦規定)の見直しは必要だろう。それに伴い自衛隊法の改正も必要となる。だが、これらの改正を行うのに集団的自衛権の容認が必要であるという前提には無理がある。理由は、過去のシリーズ③④で詳述しているので参照されたし。

以上、ここまで長文の精読を感謝します。

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑦国連憲章上の由来と国連システム下のリスク

序文


「公明党は集団的自衛権の行使に反対しています。集団的自衛権は日本以外の全ての国で行使できるのです。我が国だけが異質なのです。行使できなければ戦争に巻き込まれる可能性が高くなります。何でもできることが抑止力なのです。できることが限定されていては、出来ないところを敵に攻撃されます。」元航空自衛隊幕僚長・田母神俊雄

集団的自衛権を行使できないからこそ、我が国は憲法発効以来、ごく限られた国際紛争の収容に貢献しつつも、直接戦闘に関わらず、一発の銃弾も発射せず、一人も殺さず、あるいは殺させなかった。

この認識がない元自衛隊幹部が社会的影響力を持つ存在である現状は危険すぎる。

憲法九条は我が国にとって、戦争に対する最大の抑止力だった。それは、集団的自衛権が認められないなかで、同盟国のアメリカがこれまで関わった戦争の数と、その同盟国の我が国が参戦せずに済んだ戦争の数を数えれば一目瞭然だ。

憲法九条が戦争の抑止力だからこそ、我が国は戦争(とくにアメリカの戦争)に荷担せずに済んだ。

集団的自衛権を「普通の国」として当たり前だと考える者は、それが人類史において善き慣習であるか悪しき慣習であるかに思いを馳せる知性を発揮してほしいものだ。無原則に、かつ無思慮に、他国のあり方を模倣するのは、もう我が国は卒業できるのではないか。

時は明治大正ではない。

平成なのだ。


そもそも集団的自衛権がどのようにして国連憲章で「国家固有の権利」と認められたか、その経緯を承知している人間は我が国にどの位いるのだろうか。実は憲章の起草段階における、大国間のパワーゲームの中で生じた「妥協の産物」でしかないことを。


これは、最近わかりやすく解説しようと特集を組んでる各メディアも触れていないことだ。


本編の前に、関連する質疑応答を掲載する。


Q&A



Q:いつでもいいので教えてください。私は9条改正の危険性がよくわかってないのですが(それより自民党草案で21条を改正しようとしてる方が怖いです)首相はなぜ憲法改正せずに解釈変更だけで集団的自衛権を行使しようとしてるのでしょうか? 憲法改正が無理そうだから?


A:後ろからお答えすると、 解釈改憲を急ぐ主な理由は、 ①世論はおろか与党内ですら容認賛成のコンセンサスが無いこと、②間もなく開催する日米閣僚級会合に間に合わせるため、そして③中国と対峙する日米の体制が整ったことをASEANにアピールするため、でしょう。


改憲そのものの危険性は、第一に、これまで歯止めとなり特措法でしか対応できなかった国際紛争への参戦がいつでも出来るようになることで、必然的に共同作戦行動する同盟国のアメリカとともに日本も武力による攻撃やテロの標的となり得ることです。


次に、日本が標的となることで世界中の日系資本や在外公館が危険に晒され、本国だけでなく、企業や政府施設が展開する他国の安全も危険に晒します。たとえば、リビアやケニアで起きたアメリカ大使館の襲撃・爆破事件と同じことが日本の施設にも起こり得ます。


こうして攻撃に晒されると、アメリカは必ず報復します。集団的自衛権が容認されている場合、日本はこの報復攻撃に荷担することになり、戦争に巻き込まれます。参戦しない選択肢はありますが、現憲法下でさえ参戦要請を断った例はないのですから、危険なのです。


本編



国連憲章の起草時、後に加わる中国を除く米英仏ロの四大国は、戦後のパワーシェアリングをどうするか検討した。


その中で四大国は、常任理事国としての特権を維持することに腐心した。しかし、安保理で全ての事態に対処するのは無理があった。


そこで、加盟国に応分の負担を求める案が浮上した。


「応分の負担を求める」とはいっても、安保理の行動の範囲ではない。


つまり、国連集団安全保障体制における安保理の権限を凌駕しないが、負担に応分な「権利」を加盟国に認める必要が生じた。


そこで、これまで明文化されたことのない「個別的及び集団的自衛権」を認める選択がとられたのだ。

「集団的自衛権の制定経緯を振り返ってみると、この権利が、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺し、地域的機構の自立性が失われることに対する中小国の危惧から生み出された権利であることがわかる。」(国立国会図書館『レファレンス』2009.1より)

こうして「国家固有の権利」として、個別的及び集団的自衛権が加盟国全ての権利として認められ、国連憲章で初めて成文化された。ただし、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という条件付きで。


これは、現在の国連憲章第51条にあるとおりだ。


「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」(国連憲章第51条より)



第51条は更に安保理の上位性を次のように規定する。


「 また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」

と。


自衛権はあくまで限定的な権利なのである。


このように、個別的及び集団的自衛権は国連憲章が認める国家固有の権利ではあるものの、それは四大国による妥協の産物であり、また限定的な権利なのである。


このうち、集団的自衛権を日本が保有・行使することのリスクもまた、国連システムで認められる権利だからこそ顕在化する。


国連システム下で日本が集団的自衛権を保有・行使することの危険は、敵国条項の存在に起因する。


つまり、日本が自衛の名の下に戦争に荷担し、中国等加盟国がこれを敵国条項に触れる行為と捉えた場合、憲章第八章第53条の規定により、地域的機関などが安保理の決定を待たずに制裁行動に移れるのである。


現在、国連憲章第八章に基づき正式に発足した地域的安全保障機関は、欧州のOSCE等ごく限られている。


中ロ中心の上海協力機構SCOは、正式な八章機関ではない。だが、国連(安保理)が認めれば地域機関としての権能を発揮することもできる。


そうなると、日本は圧倒的に不利である。


よく「敵国条項は死文化している」という反論を聞くが、それは拘束力のない総会決議においてであり、名実共に憲章上の規定として条約上の拘束力を持つ。デファクトで死文化していても、デジューレ(法律上)で有効なのである。このリスクを日本国民は忘れてはならない。


「 もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。 」(第53条)


結び



集団的自衛権は我が国にとって、仮想敵国の中国に、集団安全保障に基づく「日本討伐」の正当性を与えかねない、ハイリスク・ローリターンが宿命付けられた至極限定的な権利なのである。


限定的ではあっても、日本が保有するにはあらゆるリスクが高まる正に「無用の長物」なのである。


以上、ここまでの長文の精読を感謝します。


付録:2009年国会図書館発行の国会資料より「おわりに」を抜粋(強調追加)

 もともと集団的自衛権は、大国の意向ひとつで機能が麻痺してしまう可能性を秘めた国連の集団安全保障体制を補完するために、また自らの力では攻撃に対抗できない中小国を共同で防衛するために、国連憲章第51条に規定された。そしてこの規定に基づき、これまでに二国間又は多国間において数多くの集団防衛条約が締結されてきた。これらは潜在的な敵に対する抑止となり、ひいては中小国の保護という一定の効果をもたらしたことが認められる。 

しかし、集団的自衛権の法的性質そのものについては現在も学説の一致を見ていない。また、加盟国が個々の判断で武力行使に踏み切ることを認める自衛権は、厳密には個別的安全保障として作用し、集団安全保障体制とは矛盾するとともに、常に濫用の危険をはらんでいることも否めない。それゆえに国連憲章は、「武力攻撃」の発生という厳しい行使要件と、「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という時間的要件を付した。そしてICJも、ニカラグア事件判決において、集団的自衛権を行使するためには被攻撃国による攻撃事実の宣言及び援助要請が必要だとした。 

だが、これまでの実際の集団的自衛権の行使事例を概観すると、集団的自衛権がしばしば濫用されてきたことがわかる。そこで論点となってきたのは、武力攻撃の発生の有無及び援助要請の正当性だった。冷戦後の地域紛争の増加や9.11テロのような事件の再発の可能性から、外部からの武力攻撃の存否や正当政府による援助要請の有無をめぐる議論は今後も提起されると思われる。したがって、これらを正しく見極めた上での集団的自衛権の行使が国際秩序の維持のために必要であろう。 

このように、集団的自衛権は国連憲章に規定された、すべての加盟国が有する国際法上の権利であるが、その法的性質や実際の行使をめぐっては国際法上も議論がある。確かに日本における議論がこの国際法上の議論とは乖離していることは否めない。しかし、持てる権利を行使するか否かは各国家の自由である。日本政府の集団的自衛権の解釈をめぐる議論においても、政府解釈を一方的に否定するのではなく、国連の集団安全保障の例外措置である集団的自衛権の行使が必ずしもすべての国家に肯定的に受け入れられるとは限らず、むしろ濫用の危険性から平和への脅威となりうるとの指摘もあることをふまえ、集団安全保障体制との整合性を意識して今後の議論を進めていくことが望まれる。国立国会図書館外交防衛課集団的自衛権の法的性質とその発達―国際法上の議論―『レファレンス』2009.1より)