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2014/07/01

祈念コラム:2014年7月1日 #集団的自衛権 容認閣議決定の日に思う



遂に我が国日本は、時代遅れの「20世紀の普通の国」になってしまった。

従来の集団自衛権による同盟ではなく、地域集団安全保障による国連を離れた集団安全保障体制が各地で構築されているなか、日本はこの時勢に「20世紀の同盟関係」の強化を図る。

第二次安倍内閣が念頭においてるのは、仮想敵国中国の封じ込めだ。

そのために、集団的自衛権容認をはじめ、各種法制を変え、事実上、「交戦権」の禁止と「国際紛争を解決する手段としての戦争」(「武力行使」ではない)を禁ずる平和憲法を解釈改憲することで、米国の要請に応え、日米同盟の強化に繋げることで、対中抑止力強化になると信じている。

愚の骨頂だ。

現行憲法下で我が国は、歴代政府見解の下、個別的自衛権を有し、第一義的な国防義務を負う自衛隊と、日本を防衛する片務的義務を持つ在日米軍との連携で成り立つ日米安保体制により国防を支えている。

集団的自衛権により日米安保体制が強化されるということは、実質的に現在の体制では中国を含めた周辺の脅威に対処できないことを認めるようなものだ。

つまり、日米安保の否定なのである。ここで疑問視されるべきなのは、ではこれまで何が有効だったのか、何が有効でなかったのか。何が有益で、何が無駄だったのかだ。

政府は国民に向けて、こうした説明を行っただろうか?否である。

突然、個別的自衛権ではあれができない、これができないと、15もの事例を出して、集団的自衛権が“必要”であるという「必要論」を展開したのである。それが意味する本当のことを隠しながら。

必要は、不足から生まれる。

何かが不足しているから“必要”なのであって、不足していないのに“必要”と主張するのは、詭弁である。むしろ、“必要である”というよりは“追加であったほうがよい”という程度ならば、それを「必要だから」と説明するのはもはや、詐欺の領域である。

そして、私たち日本国民はまんまとその詐欺の被害に遭った。
それが今日という日の意味である。

ただ、米側から、これを追加しろあれを追加しろと言われるがまま政府が応じた結果が今日なのか、それとも、米側から言われるままであるかのように装って実は、米側から言われてもいないのに日本側が勝手に、自らの目標を満たすために動いた結果が今日なのか、それはようとして知れない。

私は個人的には後者だと思っている。いわゆる「忖度する政治」を逆手にとった手法だ。

年末に日米協力の指針ガイドラインが改訂されれば、その結果は発表されるだろうが、その前段となった今回の閣議決定に至るまでの日米間の協議内容はおよそ把握できないし、報道もされないだろう。

米国の政府の公然の密使として、共和党制権時代の安保マフィアらが頻繁に往来し、日米同盟強化の「必要性」を喧伝する間、協議の骨格は日米国防・外務官僚の間で秘密裏に作られていったのだろうと推測する。これから行われる事務官級・閣僚級会議はその確認作業でしかない。

だが、集団的自衛権の「必要論」を持ち出したのが米側か日本側かの真相は明らかにされないまま、ガイドラインの改訂が実質的に進むだろう。そしてこれは、日米、いや世界の軍需産業界に対する安倍政権の歴史的手柄にされるだろう。

日本の平和主義が歴史的転換を迎えるこの日がもたらす変化、歴史に、現行政府はおそらく殆ど関与しないだろう。それほど長期に続く政権は過去になかったし、国民もこれほど好き勝手やる政権にいつまでも権力を握らせるほど魯鈍ではないと思う。

だがこの日、私たち日本国民は、国家を縛るべき憲法を、適正な手続きに則らずに塗り替えるフリーハンドを再び、時の政府に認める「前例」を作ったことになる。ひとつ前例が作られれば、後を継承する政権もまたその前例に倣うだろう。

立憲主義の崩壊である。

今日は、そのことの重さを噛みしめる日としたい。

2014.07.01

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集団的自衛権を巡る拙稿は、
十数編からなるこのシリーズを参照。

この一遍の祈念のコラムで述べたのは、
そのほんの片鱗に過ぎないことをお断りしておく。

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