集団的自衛権 の行使容認は「正しく」も「必要」も「抑止効果」もない。
まず「正しいか否か」という点は、主観が多く含まれると思われるだろうが、これは過去の事例を元に定量的に根拠を示すことができる。
また「正しい」とする理由には実利的側面と人道者義の錯誤があることを区別する。
1.実際は経済利益=国益優先なのに国際人道主義=国際公益重視であるかのように装う詭弁
集団的自衛権の行使容認を謳う者は、経済的利益と国際人道主義を一緒くたにして語る。まず経済的利益の確保としては、シーレーンの保護等、エネルギーの安定確保を理由に海自による海上阻止行動への参加が「必要」とする。これは一国の国益に過ぎないが、それを国際益であるかのように見せる。
集団的自衛権のの行使容認を訴える者は一方で、では邦人を守る他国艦艇を守れなくてよいのかと、今度は国際人道主義の見地から情緒に訴える。勿論、守るべきである。その為に国際的に認められた共同部隊防護の原則がある。これを実践できるよう武器使用基準を緩和すればよい。解釈改憲は必要ない。
つまり、国際人道主義に則り相互的に共助すべきという主張はもっともだがそれこそ基準の緩和のみで対応できる。すると残るのはエネルギーの確保という経済的理由のみとなり、そのために集団的自衛権の行使容認が「必要」なのだという必要論の化けの皮が剥がれる。
人道的事由と「国際公益」に関わる事態は現行の体制に少し修正を加えれば対処できるのに対し、経済的事由という「国益」に関わる事態については、現行の法体系では実質対応しきれない。それだけのことである。
所詮、経済的事由という国益重視から解釈改憲と法整備が「必要」なのであり、さも人道主義という国際公益に重点を置いたかのような主張は詭弁なのである。 国際人道上の錯誤は、これに輪をかけて深刻である。
2.人道上の理由の恣意的利用と人道的被害への荷担
政府が掲げる #集団的自衛権 の行使容認の三要件のうち、「明白な危険」の定義が明確でないため、どういった事態で「人道上」の理由が恣意的に適用されるかがわからない。正しく運用されない危険性は残る。
邦人保護の為と日本が主張しても、武力行使であればそれを「侵略」と捉えられかねない。侵略の国際定義は確定しているので、国際法違反と断じられる可能性すらある。
これが一つ。
もう一つは、三要件に掲げる国益確保のために米国等が主導する集団的自衛権或いは集団安保措置に基づく軍事行動(国連承認のものであるかに関わらず)に参加した場合に生じるいわゆる「付随的被害」の程度とその責任だ。
現在も継続中のアフガン戦争で、日本はその開始直後の01年から09年まで8年間、憲法上の疑義から民主党政権に活動を停止されるまで「給油支援」という名で事実上の兵站(ロジスティクス)支援をインド洋で行ってきた。
2008年当事、インド洋で日本が兵站支援したのは海上阻止行動OEF-MIOに関わる艦艇のみでなく、イラク攻撃OIFに関わる艦艇が含まれていたことが国会で米軍側の資料から明らかにされた。
このことから、新解釈適用以前から日本の「国際協力」は武力行使と一体化していることが疑われてきた。この件に対する政府の反証は弱く、これを覆い隠すように国際需要に基づく「必要論」が展開された。
日本の支援が武力行使と一体化していることが意味するのは、その支援を受けた他国の兵器が、日本と直接敵対しない国の一般市民を殺傷しているということである。これは直接兵器の補充を支援していなくても同じことである。
つまり、他国民を犠牲にすることを厭わない国益確保のための武力行使とこれに伴う犠牲が、集団的自衛権の行使がもたらす必然としての結果なのである。
集団的自衛権が他国民を犠牲にすることを厭わない武力行使であることは、アフガン戦争やイラク戦争のボディカウントが証明している。各戦争でこれまで死亡した各国兵士の数と各戦争の非戦闘員の死亡統計を累計してみればわかる。
アフガン戦争だけでも、十年以上に及ぶ戦闘で多国籍軍側の死者数が数千人(約3000人)規模なのに対し、「付随的被害」による民間人の死者数はこれをはるかに上回る(2010年国連統計で既に約14000人)。
フガン戦争の民間人死者数には、誤認による正当な「付随的被害」と呼べるものも、敵勢力掃討に不必要に巨大な火力或いは殺傷力を持つ兵器を使った結果の「予測し得た付随的被害」も含まれている。14年現在その総数は2万人に及ぶ。
集団的自衛権行使を容認し、いかなる正当事由を付けようともこれに加担することは、その行使によって生じる集団的責任も共同で負うことを意味する。国際刑事上の責任は勿論のこと、道義的な責任も免れない。とくに日本の場合は国際刑事裁判所の締約国なのだから猶更である。
3.まとめ
集団的自衛権の行使容認は、
- 国際公益の確保を目指すとしながらその実は不必要な体制転換で国益を追求する利己的な行為であり、
- 尚且つその行動は限定的でない武力行使との一体化を免れず、更に
- その結果が甚大な人道的被害を生むことから、
「正しく」ないのである。
集団的自衛権の行使容認派は、
- 我が国にとって「正しい」とされることが他国にとってそうであるかどうか
- 政府が逸脱行為をとらないことを保障できるかどうか
- 行動に伴う道義的責任を負う覚悟とその為に国際批判の矢面に立つ覚悟があるのかどうか
を自問自答したらいいと思う。
邦人保護を隠れ蓑にした自国利益の確保という正当化事由は脆い。その実、国際的に客観的でない基準で自国の存立のみ(米軍へのお付き合い等)を自己の尺度で測った結果の武力行使であれば、その結果責任は更に重い。それは選択した者と支持した者の責任になる。
集団的自衛権 容認を支持する人間は、その法律的・道義的責任を負う覚悟があるのだろうか。一億総無責任社会の現代日本の人間にそんな立派な“愛国者”がいるとは思えない。その責任を自ら負う覚悟があるならば、戦場の最前線に赴いてその責任を全うすべきだろう。
「集団的自衛権 に賛成する人は「派兵すること」「殺し殺されること」に賛成」という私の極論は、ここから導かれる。
いくら自国の尺度で「正しい」と主張しても、結局は、国連憲章で禁じられる武力行使を行うことに付随する、国際社会の一員としての相応の責任を、自衛官という同じ同胞である他者に丸投げしているだけなのである。
戦争への加担を反対する時に「なら自分が戦場にいけばいい」と言うのは極論にしか聞こえないかもしれないが、そこには、他者の立場に立って考え想像すること(思い遣ること)を相手に促す理がある。相手の良識と良心に訴える有効な方法なのである。
現場の自衛官が、国民・国家への忠誠と道義的・倫理的ジレンマの狭間で板挟みになるだろう彼らの苦悩に共感し、彼らを同胞として守る立場から「なら自分は戦場に行けるのか」と自他共に問うことは極論でもなんでもない。
4.おわりに
現代の基準で本当に「正しく」あろうとするならば、自分がおよそ想像すらできないことを他に求めないことから始めようではないか。それが責任ある国家への第一歩だろう。国際的な説明責任を果たさない他国を模倣してまで「普通の国家」である必要はない。
以上
次回は、 集団的自衛権 行使容認の「一般の必要論」についての反論を展開する。
尚、「抑止効果」の観点からの必要性については、この「一般の必要論」とは区別して別途論じることにする。
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