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2014/07/07

長編コラム:集団的自衛権は正しくも、必要でもなく、抑止効果もない。各論②集団的自衛権の行使容認は「必要」ない

集団的自衛権 の行使容認は、必要ない。

1.経済安保上の事由でも「必要ない」


行使容認が「必要」であるとする一般的な理由は、経済安全保障上の事由、集団安全保障上の事由、防衛上の事由の大体3つに大別されるだろう。このうち、防衛上の事由の一つに「抑止力向上」が挙げられるようだが、これについては本稿では敢えて触れない。

経済安全保障上の事由の一つとして政府が例として挙げたのが、エネルギーの安定確保事由であるが、これは日本を含む欧米側の対イラン関係の悪化によりホルムズ海峡などが封鎖された場合に備えてのことだという。

ここで不可解なのが、「関係悪化」が前提とされていることだ。

昨今、欧米とイランの関係はこれまでにないほど良好である。イランの核開発問題における制裁解除に向けた歴史的交渉の成功により、両者が歩み寄りを見せ、依然緊張はあるもの、近年稀にみるほど友好な状態にある。

その中で、交渉に参加すらしていない日本政府が周回遅れでイランとの関係悪化を前提にその対策の為に #集団的自衛権 や集団安保行動への参加が「必要」だという。何か一般に知り得ない関係悪化の兆候の情報でも掴んでいるのだろうか。

安全保障において最悪の事態を想定するのは当然なので「ホルムズ海峡封鎖」というオプションを考える「必要性」はわからないでもない。

が、現状を無視して最悪の事態が起こり得るというのなら、そのプロセスを国民に説明して然るべきだろう。即ち、外交交渉の破たん過程だ。

また、日本政府としてイランにどう接するのか、単純に欧米側に与して敵対し、歩調を揃えた制裁行動をとるだけなのか。それとも「積極的平和主義」に基づき平和裏に解決できるよう和解に努めるのか。

もし前者なら、何故ただ歩調を揃えるのか説明が必要だ。後者なら、どう和解努力を進めるのかの具体的方策の説明が必要だ。

そのいずれもなしに政府は、「ホルムズ海峡が封鎖」された場合」と、プロセスをすっ飛ばして最悪の結果が招かれた場合の対処のために、 #集団的自衛権 の行使容認が必要だとしている。単なる事例だとしても、あまりにも乱暴だろう。

その上で、百歩譲って最悪の事態が起きたとしても、集団的自衛権・集団安保措置いずれであっても、有事の共同任務対応なのだから、共同部隊防護で対処は可能である。

まず公海上の船舶の防護は、地理的制約のない武力事態対処法の適用で個別的自衛権により可能である。更に共同任務時の相互の艦艇防護については、共同部隊防護の原則適用により対応できる。

現行の法体系がこれに対応していない場合は、集団的自衛権の容認をせずとも武器使用基準(部隊行動規則)の緩和により対応できる。

政府の「論理的整理」は、部隊防護のための部隊行動基準の緩和のために憲法解釈の「再整理」が必要ということなのだろうが、それこそ政府解釈により、単独的自衛権は慣習国際法上認められた権利であり、これに基づく共同部隊防護を合憲と解釈すればいいのである。拡大的に憲法の基本理念まで解釈を修正する必要はない。

したがって、エネルギーの安定確保等の経済安全保障上の事由により #集団的自衛権 の行使を容認する「必要」はない。

これは、集団安全保障上の事由についても同じである。

2.集団安保上の事由でも「必要ない」


政府の「再整理」では、個別的・集団的自衛権の行使に基づく活動が途中で国連の集団安保措置に切り替わったとしても、日本は個別的・集団的自衛権の行使として引き続き国連の集団安保の枠組みでも活動できるというものだ。

従来の憲法解釈では集団安保における武力行使には参加できないことから、その解釈のままだと活動を停止しなければならない。「それはおかしい」というのが政府の考え方の起点だ。だから「可能な筈だ」という結論ありきの考え方で「再整理」されている。

しかし、そんなしち面倒くさく考えなくても、集団的自衛権なしでも共同部隊防護を可能にすればよいのだから、集団安保措置においても当然、この同じ考え方で対処は可能は筈なのである。国家としての自衛権は安保措置の発動と同時に停止されるからである。

集団的自衛権・集団安保措置の両方について現在政府が抱える(と主張する)人道上のジレンマは、いわゆる「駆けつけ警護」ができないことで、自らは他国の部隊に守ってもらっても日本側は守ることができないというものだ。

日本側は命を懸けて貰っているのに日本側は相手を守れないでよいのかと、「特異な法体系」により足枷をはめられた自衛隊を解放しようと「道義的な責任」を持ち出して情に訴えているのだ。これは情緒論だが正論である。

ならば、解決策は簡単である。共同部隊防護のための単独的自衛権の行使を認めればいい。これはこれまでの憲法の運用上の解釈が厳格すぎておかしかったのであって、そこを緩和するだけで足りる。それは運用面の改善だけで済む筈である。

よって、経済・集団安保上のいずれの事由による「必要論」も #集団的自衛権 の行使容認を必要とするには根拠薄弱なのである。現行の体制を少し変えるだけで対応できることであり、憲法の根本理念を書き替えるような抜本的修正は「必要ない」のである。

3.おわりに


最悪の事態を想定して対策を立てるのは、国民の生命と財産を保護する国家の一義的責任である。がしかし、最悪の事態に至らない道程を志向し、かつ具体的にこれを回避する策を講じるのもまた、国家政府の一義的責任を構成する。

また最悪の事態を回避する対策を検討するに当たっては、その費用対効果等、かぎりなく合理的で財政負担の少ない手段を講じるのも国家政府の務めである。

現在の日本政府の考え方には、この発想が根本的に欠けているように思われる。

個別的・集団的に依らず、一般に自衛権の行使には「他に代替する手段がないこと」が要件とされる。即ち、外交的手段が出尽くしていることが前提であり、それ以前に各国との友好関係を構築する予防外交を展開する能力が訴求されるのである。

安易に権利拡大を求めるより先に、政府は外交能力の強化を通じて他国との関係を良好に維持し、尚且つ、有事には適切に対処できるよう体制を整えるのが肝要であろう。軍事力を外交力の延長、あるいは背景とする考え方は前時代的に過ぎる。

政府は、「必要のない」権利拡大よりも、「必要のある」努力を行う体制を整えることに腐心すべきであって、国際社会における軍事力を外交交渉における万能な道具のように捉える「ハコモノ行政」的な考え方は捨てるべきである。

以上

次で本シリーズ最後となるが、 集団的自衛権が抑止力向上の効果を持たないことについては、また次回、論じることにする。

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