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2011/08/09

銃社会アメリカに渡る


実は、私はまもなくアメリカに向けて旅立つ。

アメリカの歴史上、様々な社会運動の中心地だったカリフォルニアに住む姉夫婦の元で療養生活を送るためだ。何の療養なのか、そのことにはここでは触れないことにする。

自他ともに認める「異邦人」である私にとって、アメリカは、いわば「アナザースカイ」。
第二の故郷である。

しかしアメリカを愛してやまない私にとって、無視できないアメリカの病巣がある。
それが医療の現状であり、銃社会の現状である。

最近、シッコ」「ボウリング・フォー・コロンバインなど、マイケル・ムーア監督の作品や、「ガープの世界」「ミルク」など、アメリカの活動家たちの生涯を描いた映画を立て続けにてみている。とくに「ミルク」は、これから行くサンフランシスコの街が舞台で、近年全米で第2番目にゲイの結婚を認めたカリフォルニア州で、まだゲイの権利が認められていなかった70年代に、命を賭して米史上初めてゲイで公職についた活動家の自伝的作品だった。

これら全作品に共通するのが、時代を越えて存在するアメリカの銃社会の病巣だ。

実はつい今しがた、「ガープの世界」を見終わったのだが、その衝撃のラストに私はしばらく今までにないほど強い鳥肌が立つのを感じた。そしてそれは持続した。感動の鳥肌ではなく、嫌悪によって精神が圧倒される感覚の鳥肌だった。映画の中の世界・出来事だと理解しつつも、それを制作者に想像させてしまう、「おきまりのパターン」にしてしまう思考の安易さに恐怖したのだ。つまり、主人公が活動家など違う主義・主張・思想の持ち主に殺されるエンディングは、身近に感じやすいという病巣だ。つまりそれって、現実感があるってことではないか!

自由の世界アメリカでは、多くの活動家や、思想家、政治家が、志半ばで文字通り「凶弾」によって倒れてきた。そしてその凶弾は、常に、一般の市民の持つ銃から発射されてきた。市民に銃を持つ権利が認められているためだ。そしてこの権利は、権力者によって悪用され、市民は権力者の目的を果たすための道具に成り下がった。

1994年、コロンバイン高校での忌まわしい銃乱射事件の直後、全米ライフル協会(NRA)会長のチャールストン・ヘストンは、そのコロンバインの地で集会を開いたという。このことについて、マイケル・ムーア監督が映画の中で問いかける。「なぜ、集会を開いたのか。あのような事件の後にそのようなことを行って、無神経だったとは思わないのか」と。

ヘストン会長は最後まで言葉を濁し、明言を避けたが、勢いでつい本音を漏らしてしまった。


銃を持つ権利を否定されないためだ」と。



ムーア監督のインタビューに答えるヘストン会長(英語のみ)

正直、狂ってるとしか思えなかった。ヘストン会長が、ではない。
ヘストン会長のような考え方を肯定することを許容するアメリカ社会がだ。

アメリカには、ひじょうに多様な価値観が息づいている。人種のるつぼともいわれ、まさに世界の縮図というくらい多くの人種が入り交じっている。全盛期のローマのようである。

ところが「るつぼ」というのは大いなる錯覚で、実際は交わらないミックスサラダ」というような形容が正しい。言ってみれば、大きなサラダボウルに、それぞれのテイストのサラダがきっちりテリトリーを決めあって区分けされて存在しているのだ。るつぼなんて、とんでもない(実際、その“区分け”具合をアメリカの大学で体験した)。



マイケル・ムーアの描く「3分で分かるアメリカの歴史」 (英語のみ)

銃社会そのものではなく、このテリトリー争いの実像を描いた作品もある。ずいぶん前にレビューを書いたことがあった(といっても五行歌だが)が、いまだに記憶に残っている。「フリーダムライターズ」という作品だ。自由のただ乗り論、フリーダム「ライダー」ではなく「ライター」である。

この作品の中では、ある公立高校の実在の教師が、どうやってテリトリー争いに明け暮れる生徒たちに本音を描かせ、それを求心力として異なる人種からなる生徒たちをまとめたかが描かれている。そこから見えるのは、単に銃社会アメリカという姿ではなく、異なるものを許容しない」閉息社会アメリカの姿、病巣だった。

保守対リベラル、公民権運動対白人至上主義、同性愛者の権利主張対排斥主義、女性の権利向上対女性蔑視、キリスト教原理主義者対一般のキリスト教徒または他宗教の信者。

うした主義主張の違いを認めず真っ向から対立する病巣。

そして、ヒスパニック系、アジア系、イタリア系、黒人、白人などが互いにテリトリーをめぐって争い続ける病巣。

銃社会というのは、実はこれらの争いをより醜くしているに過ぎない。銃の所持が問題なのではなく、自分の権利行使のために、他人の権利を無視して、銃を使用してそれを実現しようとすることが問題なのだ。そしてその風潮を疑問視せず、未だに全米で銃の使用禁止を実行できない政府の問題なのだ

合衆国憲法において認められる、right to bear arms という武器保有の権利は、自分の主義主張を突き通すために認められる権利なのだろうか。あるいは、他人の主義主張を排するために認められる権利なのだろうか。あるいは、自己や愛する者のみを守るために認められる権利なのだろうか。そのために、予防的に殺人を犯したり、疑心暗鬼から殺してしまうことが、正当な権利として認められているのだろうか。

もちろん、予防的であれ、疑心暗鬼にかられたものであれ、殺人は犯罪。犯罪が裁かれないという訳ではない。ちゃんと各州法に基づいて法の裁きは行われれる。そこに問題はない。問題なのは、犯罪を行使できる武器の保有を、憲法上の権利として認めていることだ。

アメリカの凄いところは、こうした正当な権利として疑義のある権利であっても、憲法上の権利として死守してきたところだ。本当に凄まじい国だ。

もちろん、連邦制なので州によって憲法の適用範囲が異なり、銃保持を認めない州もある。だが基本、憲法上の権利として尊重する念が先にあり、それに対して制限を設けるという形で、各州では武器管理を行っている(もはや、単に「銃」とはいわない)。

マイケル・ムーア監督も作中で述べていたが、アメリカは寛容な社会ではない。それは、単に自由には責任が伴うという正論の意味ではない。「アメリカ的でない」異なる価値観、主義、主張に非寛容的な社会なのである。

では「アメリカ的である」とはどういうことなのか。
このことを、アメリカ社会はずっと暗中模索している。

まるで思春期の少年のように。

まだ自愛と他愛の境界線のわからない思春期の少年に、自己を愛せ、他人を自己のように愛せと社会に教えられても、その通りに実行はできないだろう。アメリカの病巣はまさにそこにある。自分の愛し方も、他人の愛し方も、自分の尊重の仕方も、他人の尊重の仕方もわからないうちに、「正しいあり方」を植え付けられ、洗脳され、「自己」を失い、周囲の価値観に埋没し、排他的になる。そしてその排他性は、武器を得たことにより凶暴化、凶悪化する。

アメリカほどあけっぴろげに、歴史上の人物が暗殺されてきた国はない。
よく言われることだ。しかしそれはなぜなのか。

なぜアメリカでは未だに、暗殺が横行するのか。なぜ、堕胎クリニックが手投げ爆弾による襲撃を受けるのか(在学中実際に起きた)、なぜユダヤ人を悪く言いうと社会的制裁を受けるのか(なぜニューヨークでこれがタブーなのか)、なぜゲイは肩身の狭い思いをし続けなければらないのか、なぜ黒人が高い社会的地位を得ると、それが実力によるものだと思われないのか、なぜ黒人に高い地位を与えることがその人間の公民権意識の高さを表すいびつなバロメーターになるのか(なぜその程度のことで賞賛されるのか)。なぜ仕事を他人種に奪われることが純粋に自分の能力・実績に起因することだと素直に思えないのか。

なぜ他を憎悪するのか。できるのか。
なぜ殺したいほどに人を憎悪するのか。できるのか。

現地でしっかり見つめてこようと思う。
生身のアメリカの姿を。