“No one is useless in this world who lightens the burdens of another.”― Charles Dickens
「他者の重荷を背負おうとする者が、
不要な人間であろう筈がない」
チャールズ・ディケンズ
はじめに
政治的権限のない者をどう政治利用するのだろう。それこそ欺瞞の日本史を暴くことになるだろう。それこそが最大のタブーだろう。我が国の有史以来、利用してきたことこそが史実なのだから。
戦前も、戦後も、変わらず。
対して、山本太郎参議が会に招かれた参議院議員として行ったことは、「人」である天皇に、「人」として事実を伝えようとしただけのことだ。公式に面会を要請し直訴すればそれこそ「政治利用」を疑われても致し方ないが、そういう状況下で行われた行為ではない。
天皇が「人」として動くかは天皇という人間次第だ。
後日行われた会見によると、山本太郎参議は天皇陛下への書状を一枚続きの巻き紙に筆で綴ったという。天皇にしたためる書状として敬意を込め、きちんと体裁を整えた上で一言添え、深い礼とともに手紙をお渡しし、陛下はそれをお受け取りになった。
陛下は象徴であり我ら日本国民は陛下の臣民ではない。
本来なら、象徴としての敬意で十分の筈だ。
国会議員として国民に求められる良識
事実を整理すると、山本太郎参議は国会議員であり、参議に選ばれた人間として有権者に責任を持つ。国会議員である以上は国会法その他参議院の諸規則に拘束されるが規則に記載のないことは原則自己裁量に任される。一般人ではなく国会議員だからこそ規則に律せられる立場にある。
また憲法上、すべての日本国民は何人も請願を妨げられない権利を有するが、これは下位法である請願法によって、「所管する官公署にこれを提出しなければならない」と規定されている。また、天皇に対する請願書は、「内閣にこれを提出しなければならない」とも規定されている。
しかし、そもそも、「請願」とは、「主権者たる一般国民の政治意思を国政の運営に表明して実現させるべく、 広く国や地方自治体の国家機関に対して要望を述べること」を言うそうだから、天皇は国家機関(この場合は宮内庁)の長ではなく、また宮内庁はそもそも「政治意思を国政の運営に表明して実現」する機能を持たないのだから、天皇に国会議員が直接個人として書状を渡す行為は「請願」には当たらないと考えられる。
後は、自己裁量の問題となる。
自己裁量の範疇においても、国会議員としての自覚と相応の振る舞いが求められるのは、これは良識の範囲である。その良識の範囲内で、国会議員でありつつも、天皇陛下に接する機会を許された人としてできることを、山本太郎参議は行った。「臣民」でも「臣下」でもなく、「人」として天皇陛下に現状を伝えた。
窮地で天皇に救いを求める日本人の国民性
国会議員となる前日、山本太郎候補も居合わせた最後の渋谷での選挙フェスで、同じく候補の三宅洋平が切実と思わずこう言葉を漏らした(動画)ことを鮮明に覚えている。
「天皇さんも聞いてるかなー?」と。
憲法9条を読み上げる前段での言葉だった。
天皇陛下とは国民にとって、そういう存在なのだろう。
政治的権限の有る無しに関わらず、日本の人々が最後の頼みの綱として、思わず思い浮かべる存在。天皇陛下はどう思われるだろう。天皇陛下はご存じなのだろうか。陛下に伝えて何とかなる訳ではない。
それでも日本の人々は、最後には天皇頼みにしてしまう。
そういう国民性。そういう存在なのだ。
皇室をとくに敬う気持ちのない、天皇制など無駄だと思う私にとっても、こうした人々が天皇を敬う気持ちは無碍にできない。そして一番、この気持ちを無碍にしてはならないのが、国民の代表たる国会議員だろう。
それが、国民が求める良識ではないだろうか。
一色登希彦の漫画『日本沈没』に、その日本人の「天皇頼み」の姿を如実に描いたシーンがあった。まさに日本が沈没しようとするその時、沈み行く日本列島と運命を共にすることを、全国民・世界に語りかける天皇の姿があったのだ。
不敬な私も、このシーンには大きな感動を禁じ得なかった。
以下引用する。
「このたびの、日本国土の沈没・消失という大事においては、国民ひとりひとりの、苦難、心痛は、察するに余りあるもので、わたくしも、たいへん、心を痛めています。我が国の、国土の消失と、国民の諸外国への移住が、不可避となったいま・・・国民にむけて、わたくしの思いを、伝えたいと、考えます。
わたくしが、この場所から、国民に向けて話ができる機会も、最後かもしれません。国土すべての、消失、沈没という事態は、およそ人類史上、例を見ない出来事であり、国民、皆の苦難を思う時、常、ならざる、心の痛みを覚えます。
日本の国土と、日本国民が、未曾有の苦しみの中にある、いま、わたしくは、日本国民に、わたくしの気持ちを伝えたいと、考えました。国民、すべてが、諸外国への「移住」を避けられぬこと、その「移住」が、必ずしも皆の望む形ではないことも、聞き及んでいますし、それゆえ、残念ながら、皆の顔から、元気や、笑顔が、見られなくなってしまったことも、無理からぬことと、考えます。
一方で、わたくし自身、多く海外に赴き、世界中の方々との交流を通して、たいせつなことは、国家や、人種ということではなく、ひとりひとりが「人」として、胸を張って目と目を合わせ、「人と人のつきあい」をきちんとしてゆくこと、そうしたことが大切なのではないでしょうか。
本来、日本の人々は、そうしたこと上手な人々であると思います。礼儀を大切にし、優しさにあふれ、人の為に生きる美しさを持ち。わたくしは、もし日本と、日本人を誇るとしたら、そうして点においてであると、考えます。
日本と日本人は今、物心両面において辛く、苦しい出来事に見舞われていますが、過去、世界中の国々から、多くのことを学び、いただいてきました。今回の苦難は、その、お返しをする機会、日本世界と友好的な関係を深め、再出発をする為の、大事な機会だと、考えることもできます。
ですのでわたくしは、皆が、国土を離れてゆくにあたり、可能な限り、もしかなうならば、日本を離れる際は、わたくしが最後のひとりであるつもりで、新しい世界に向けて出発する皆の姿を、祝福とともに、見送り、見届けたいと考えます。
自然の脅威と、不思議に対しては、わたくしたち人間は、ただ、それを、思い、知るのみで、列島の消失/沈没もさることながら、列島が、消失しきるまで留まり続けるとされる、この、雨と、風をもたらす台風によって、皆の心から晴れやかさが一層失われている事でしょうが、眼前の世界の天気の良し悪しとは別に、「晴れ晴れした心の持ちよう」は、また、あるのではないでしょうか?
国民ひとりひとりが、この人類への試練ともいうべき、苦難を乗り越え、生きて、世界中の人々と仲良くなり、そのようにして、また、この地球上のどこかで皆さんと、会える事を、わたくしは、希望しています。」
2008年に書かれたこの漫画に現れる「あの御方」の言葉は、あるいは、作者の強烈な願望の表れかもしれない。未曾有の大惨事に遭って、「あの御方」がこのような言葉をかけてくださるかどうかは、わからない。だが実際、「あの御方」はかけてくださったことがある。しかし最後の「再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。」という一文は、マスコミにすっかり封殺されてしまった。
「さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。」
3.11の三年前に書かれたこの漫画の連載は、往年の傑作SF小説をもとに、将来の惨状を予期しかしていなかった。しかし、その惨状の中で、作者が日本人の心を救うだろうと考える存在は、やはり「あの御方」だった。(作中では「天皇」とは一言も書かれないで、「あの人」あるいは「この人」とあるが、その描写からわかる)
日本人にとって、天皇陛下というのは、そういう存在なのだと思う。普段、不敬なことを言っていても、まったく敬っていなくても、その存在すら忘れていても、国難といえるほどの窮状に陥ると、やはりその存在を求めるようになる。言葉を、求めるようになる。
いま、まさに私たち国民の多くは、その窮状にある。
天皇を政治利用できる・するのは時の為政者のみ
憲法上の象徴であり、国家元首ではなく、政治的権限を持たない「天皇」という存在。しかし、その存在は戦前から政治的に作り上げられたもので、有史以来、国家統一のため、人心掌握のため、国威発揚のために、時の為政者によって政治利用されてきた。
つまり、いち国会議員に利用できる存在ではない。
東京五輪招致の時に見られた、皇室の担ぎ出し。あれこそが「政治利用」の姿である。まさに、時の為政者によってのみ、天皇や皇室は利用されるのである。それを顕著に示したのが、五輪招致での皇室の人間の担ぎ出しだ。これこそ最も不敬な「政治利用」の形といえるだろう。宮内庁は文科省の要請に対し、「苦渋の決断」で出席を承諾したが、相当抵抗したらしい。
さらに、今年4月に制定された「主権回復の日」に起きた問題がある。この記念式典に、政府は天皇・皇后両陛下のご臨席を正式に要請したという。宮内庁はこの時も難色を示したというが、極めつけが、首相をはじめ列席の議員らが「天皇陛下万歳」と万歳三唱を行ったことである(動画)。
これは、これまで慣例では、政府の式典ではあり得ないことだ。まして、この日は本来、「我が国による国際社会の平和と繁栄への責任ある貢献の意義を確認する」ための日であって、68年前のこの日を境に、新憲法の下、象徴となった天皇の栄誉を称えるための式典ではないのだから。
もっとも、動画で確認するかぎり、この「万歳」の呼びかけは、1人の列席議員から始まったようだが、これを政府主催の式典においてその場で制止せずに、出席者の多くによる「万歳三唱」を許してしまうようでは、「偶発的な事故を装って天皇陛下のご臨席を国威発揚のために政治利用した」と疑われても致し方あるまい。実際、報道では「壇上の安倍晋三首相ら三権の長がそろって両手を上げ、声を合わせた」と言われている。
このように、政治権力を用いて天皇を「政治利用」の場に担ぎ出すことができる、あるいはそういった行為に及ぶのは、時の為政者、政府・与党、権力者のみなのである。
山本参議の尊い代弁行為に感謝を込めて
山本太郎参議は天皇陛下を御前にするにあたり、前日に毛筆で書状をしたため、それを国民の求める良識の発露とした。一般の国民には、なかなか機会がない。あっても畏れ多くて口にできない。その国民の思いを文にしたため、代弁してくれた山本参議の行為を私は尊い代弁行為だと思う。
その厳粛な姿勢は、この深い「拝」にも表れている。
いま一度、山本太郎参議にこの言葉を贈る:
「他者の重荷を背負おうとする者が、
不要な人間であろう筈がない」
チャールズ・ディケンズ
身を挺して尊い代弁行為を行ってくれるあなたは、
参議院に、国会に、そして日本に必要な人間です。
ありがとうございました。