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2014/07/18

コラム: 続 #ガザ空爆 でジェノサイドを扇動するイスラエルの現役議員 やはり、他人事ではない #PrayForGaza


推論: アイェレット・シャーケッド議員の記事は、深刻な結果を招いていたかもしれない。

 イスラエル極右政党のアイェレット・シャーケッド議員。今回の「パレスチナの母親皆殺し」記事は、単にジェノサイド罪に値する暴言であるだけでなく、より深刻な結果を招いていたかもしれない。 ↓
 http://t.co/yOKNOl93On via @dailysabah

 今回の #ガザ 空爆に至る詳細な経緯は把握していないのだが、大阪の人民日報という民間報道機関(?)が、在イスラエル日本人女性の記事として詳しく経緯をまとめていた。 http://t.co/Al42U5QMGD

 大阪人民日報によると、今回の #ガザ 空爆はイスラエル少年三名の拉致誘拐・殺害が直接の原因だとされている。イスラエル側はハマスの犯行と断定し、ハマスは否定したが構わず攻撃を始めたと。ハマスは拉致誘拐については必ず犯行声明を出すらしく、今回はそれがなかったとのこと。

また大阪人民日報は、そもそもイスラエル少年三名が拉致誘拐されたのは、五月にパレスチナの少年が彼ら三人に殺害されたことの報復だとされており、イスラエル政府はそれをハマスの犯行だと独断で断定したとのことなのだが、Daily Sabah紙は7月2日に起きた殺人事件が発端だとしている。

Daily Sabahによると、問題となっている極右政党「ユダヤの家」のシャーケッド議員の投稿は、イスラエル兵士を含む少年六名により、一人のパレスチナ少年が暴行され焼き殺される一日前にポストされたという。記事にはないが、イスラエル少年三名の拉致誘拐はその報復なのではないだろうか。

こうして限られた情報を辿っていくと、ある恐ろしい推論に辿り着く。現在、遂に地上戦にまで至った #ガザ 攻撃は、イスラエルの人気政治家シャーケッド議員のジェノサイドを扇動するポストに触発された数名のイスラエル人少年らの蛮行に端を発しているのではないか、という推論だ。

 さて、当のシャーケッド議員は、7月1日に投稿され問題報道後の15日再編集されたポストに書かれている内容は、自らの言葉ではなく引用だとしている。たしかにそのことは、報道の元になったDaily Beastの著者も認めている。 http://t.co/T48zeaCqHG

ジャーナリスト議員はDaily Beastの記事は捏造と反論する16日のJewish Pressに対する独占寄稿記事で、必死の弁解を展開する。 http://t.co/QwcHFUq2xr
だが、百歩譲って彼女の主張が事実だとしても、問題の引用があったのは事実である。

ここで更に百歩譲って、シャーケッド議員が引用した記事は実在するとする。問題はどういう文脈と意図で、その記事が引用されたかであり、議員自身がどう思っているからだろう。残念ながら、反論記事の説明は中途半端で精彩を欠いた。さらに、投稿が再編集されている事実もある。

トルコのエルドガン首相をして「ヒトラーのような発言だ」と批判された問題の"引用"について、議員は短く、引用元の要旨は「戦争において一方の勢力が市民を攻撃した場合、その勢力は自らの市民について特別な待遇を受ける資格を失う」 だったと説明した。依然、国際法違反である。

ガザ攻撃に関する情報は錯綜し過ぎていて、今回の事態の発展経緯の真相はようとしてしれない。だが若者に絶大な人気を誇る現役の議員がジェノサイドを扇動・正当化するような投稿を行ったことは覆しようのない事実である。

私のこの推論が誤りだとしても、この議員の重大な過失は問題視されるべきである。

おわりに


法の悪用で文民への攻撃を正当化することの悪辣さ

国際人道法上、文民は自ら武器を持って戦闘に加わらないかぎりは非戦闘員とみなされ、法の庇護に置かれる。紛争の当事者はこれを尊重し、極力文民を戦闘行為から保護しなければならない。

ネタニヤフ首相の元側近が、今から12年前に、シャーケッド議員が引用したように述べていたのだとすれば、それは国際法上の認識が乏しいと言わざるを得ず、またその誤認を鵜呑みにして文民への攻撃を正当化する議員の考え方は危険極まりない。

議員自身の主張については、原文がヘブライ語で書かれているため機械翻訳した程度ではその意図を正確には把握できないのだが、自身が心酔する人物が文民への攻撃を正当化した未公表の文章を引用した背景には、自らの主張を正当化、あるいは少なくとも補強する狙いがあったのだろうと容易に類推できる。

文民への攻撃を正当化し、敵を根絶やしにするために、自らの手を血に染めて、文民の母親をもその家ごと破壊してしまっても構わないという発想は、単に部族同士の憎しみから相手部族を殲滅しようとしたあのルワンダ大虐殺をも凌駕する。法を悪用しているからである。

ルワンダ大虐殺では、法は不在だった。殺戮に関わった多くの一般市民は、国際法など知らなかった。当時、国際刑事裁判所ローマ規程は存在しなかったが、ジェノサイドはジェノサイド禁止条約として国際強行規範に触れる犯罪として既に当時認識されていた。

ルワンダのこの無法状態の中で起きた虐殺と、法の悪用(錯誤)の上に成り立つ現在のイスラエルのガザ攻撃ではどちらがより悪辣なのか。あまつさえこの議員は、法を悪用して文民への攻撃を正当化している。当然イスラエル兵は、国際法上の軍隊として遵守する義務がある。

やはり、もう他人事ではない。

何万人ものフォロワのいるこの有名人若手議員(まだ若干38歳で二児の母だという)が、イスラエルの若者層に及ぼす影響は大きいだろう。その議員が、たとえ引用であったとしても、大量虐殺を正当化・扇動するような投稿を行い、その直後に、一連の暴力の連鎖が起きているということが現在判明している時系列の事実なのである。

いかなる背景があろうと、たとえ自らの言葉ではなく引用でしかなくても、自らの影響力を十分に把握する議員が、結果的に現行の国際法上犯罪行為とされる「扇動」行為を行ったことは許しがたい。これが日本の国会議員だったらと思うと、身震いがする思いである。

しかし、日本の一般的な国会議員の国際法に関する知見は、このイスラエルの極右系議員とそう大差がない。これは、これまでの運動の実体験として把握している。そう考えると、やはり今回のことは「他人事」とは到底思えないのである。

そういう意味で、閣議決定により広範な武力行使が可能となった現在、今回の重大な発言の深刻さと、そのことが孕む危険性の大きさは、私たち日本人にとって、十分将来起こり得る蓋然性の高さを認識させる事件だったといえる。

昨今、現実的にみられる日本の地方・中央政治の倫理・道徳の乱れは、私たち市民に、より一層の政治監視が必要であることを警告している。シャーケッド議員のように非見識で、かつ、悪辣な扇動家が、日本から現れるようなことはあってはならない。

だが既に、その兆候は各地にみられる。

私たちはこれを阻止しなければならない。
日本国民の名誉にかけて。

2014/07/17

(miniコラム) #ガザ空爆 でジェノサイドを扇動するイスラエルの現役議員 これは他人事ではない(2014.07.17 ) #PrayForGaza

問題のポストをしたとされる「ユダヤの家」党のアイェレット・シャーケッド議員


イスラエルの女性議員が「パレスチナの母親は皆殺しにすべき」と発言したというツイートが流れてきた。

【速報】「パレスチナの母親は皆殺しにすべき」イスラエル極右女性議員が発言 
‘We must kill all Palestinian mothers http://shar.es/Nylzx   
pic.twitter.com/QL6rowMRva #PrayForGaza


事実ならば、国際法上「集団殺害犯罪」(いわゆるジェノサイド罪)を構成する、責任重大な発言だ。国際刑事裁判所ローマ規程はその管轄犯罪において、実体行為のない「扇動」も犯罪と規定している。

本当だった・・・各アラブ系メディアが取り上げている。↓

"They have to die and their houses should be demolished so that they cannot bear any more terrorists," Shaked said, adding, "They are all our enemies and their blood should be on our hands. This also applies to the mothers of the dead terrorists.

「彼らは死ななければならない、もはや一人のテロリストも生れることのないよう、彼らの住む家々は解体しなければらない。

シャーケッド議員はこう述べ、さらにこう付け加えた。

彼らはみな我々の敵であり、我々は自らの手を彼らの血で汚さなければならない。これは、死んだテロリストらの母親たちにも当てはまる


引用元と見られる今年7/1付けのFBのポスト。なぜか7.15付けで更新されている。


まさに「殲滅を扇動する発言」である。

「扇動罪」を許してはならない訳


この実体行為のない「扇動」を犯罪とすべきという考えは、ルワンダ大虐殺の悲劇の教訓から生まれた。80日間で100万人が殺されたこの民間大虐殺では、殺人を促すラジオ放送が問題とされた。殺害のターゲットのいる場所を逐一ラジオで報せ、「ゴキブリどもを踏み殺せ」と放送していたからだ。(参考

国際社会はこの惨劇から、実体行為のない行為も犯罪として罰するべきだというコンセンサスに達した。その対象は、民間人だけではない。現職の議員も、国家首脳も含む。つまり、実際に殺人犯すわけではないが「扇動」により虐殺に加担する行為も、現代の国際法では訴追対象となるのである。

かつて外務省と法務省は「論理的可能性でしかない」として、日本が国際刑事裁判所に加盟する時の法整備に実体行為のない「扇動」は犯罪化する必要はないと主張していたものだった。日本の国会議員が、「そんなこと」を公言するのはあり得ないと言いたかったのだろうか。

「集団殺害罪の扇動罪→これがたとえば議員の免責特権との関係が一応問題になりうる。しかし、これも想定する必要はないのではないか。(議員が国会でICCに関する犯罪を命令するということは、ほとんど考えられない)」 自民党勉強会での法務省の回答


だが、日本が準同盟国宣言をしたばかりのイスラエルの女性議員は「そんなこと」を公言した。国際刑事裁判所に加盟していれば、その発言の結果として殺人行為が行われればジェノサイド罪に問われかねない重大発言だ。

なぜ単なる戦争犯罪や人道に対する罪としての「殺人」ではないのか?

ただの殺人ではなく「ジェノサイド」なのは、「母親を全て殺す」という行為が即ちひとつの民族の殲滅を企図していると見なされるからだ。つまり実体行為がなくても殺人を故意に「扇動」しており、また単なる殺人ではなく、大量の殺人を企図して行われる故意の「扇動」だと判断される。

日本が大丈夫とは・・・とても思えない。


さて、みなさん。日本の国会議員なら、こんなことは口にする筈がないと思えますか?
想像力を押し広げて、想像してみよう。

仮に日本がイスラエルのように一部の反政府勢力Xに武力攻撃され、軍事的報復を決めたとする。反政府勢力Xは一部支持する一般市民によってかくまわれ、政府は敵を炙り出すために民間施設も標的とする。一般市民にも犠牲が増え、これに対して反政府勢力Xが報復することで暴力の連鎖が続く。

こうした苛烈な攻撃の応酬がされる中で、国会議員が「反政府勢力Xをかくまう民間人も皆殺しにしてしまえ」と公言する可能性が、ないと言い切れるだろうか。とくに、昨今の失言・ 暴言・暴挙のオンパレードがみられる日本の地方・中央各議会において。極めてあり得る可能性のように思える。

仮に日本で扇動罪が成立するととして、国家公務員による実体行為のない殺人行為を処罰するものとなるかどうかは、未知数である。外務省・法務省は、国家公務員によるそうした行為が起こる論理的可能性はないと否定した。つまり扇動罪が成立したとしても、実体行為のない行為による殺人で国家公務員を裁くつもりはないのだろう。

だが、公僕たるもの、世界138か国が署名したローマ規程が管轄犯罪とする犯罪行為に類する行為に及んでよいかどうかという判断くらいはできなければ、国家として「国際社会の責任ある一員」など標榜すべくもない。

嘆かわしいのは、現在の日本の政界を見渡して、イスラエル議員のような発言が行われる可能性を「論理的可能でしかない」とは到底思えないことだ。むしろ、「現実的可能性として十分あり得る」と捉え、将来の重大な国際犯罪を防ぐためにも、いまのうちにしっかりと枷をはめておくべきだろう。

その位、我が国の公僕の倫理感や道徳意識は危ういと言わざるを得ない。

奇しくも今日7月17日は「国際司法の日」
1998年に国際刑事裁判所ローマ規程が採択されて十六周年となる記念すべき日である。

世界中が常設の国際司法機関の誕生を祝うこの日に、その国際機関が裁くことのできる発言をいとも容易く発してしまうイスラエルの国会議員。

日本の国会議員には、まさに「他人のふり見てわがふり直せ」の精神で、このような言葉が日本から発せられることが決してないよう、襟を正して公務に当たってほしいものである。

2014年7月17日

十六年目の国際司法の日と
国際司法と並んで国際道徳が
発展することを祈念して

2014/07/13

(書き起こし)2014.7.3放送クローズアップ現代『集団的自衛権 菅官房長官に問う』抜粋引用+再校正+未記載部分


【集団的自衛権】菅官房長官に問う 投稿者 311akatsuki
@kingo999 さん転載の書き起こしテキスト via Mediacrit の抜粋・校正
(参考)番組公式「放送丸ごとチェック」全文


NHKクローズアップ現代「【集団的自衛権】官房長官に問う」(2014.07.03)登場人物一覧
国谷裕子キャスター(番組キャスター)
原 聖樹氏(NHK政治部・記者)
管義偉(内閣官房長官・国家安全保障強化担当)
集団的自衛権
管官房長官に問う

国谷キャスター: ここからは集団的自衛権の行使容認について考えていきます。
従来の憲法9条の政府見解の解釈では武力行使が許容されるのは日本に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとされてきました。
政府は憲法9条の解釈を変更し、「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し日本の存立が脅かされ国民の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に必要最小限度の実力の行使をするのは憲法上許容される」という解釈を打ち出し、戦後日本の安全保障政策を大きく転換する閣議決定を行いました。




日本を取り巻く安全保障環境の変化が最大の理由だとしています。
憲法解釈の結論として許容されないとしてきた集団的自衛権を容認するという大転換。
政府は、あくまで安全保障政策の根幹を成す専守防衛、武力行使は自衛のために限るという方針に変わりはないとしています。
これまで世界の多くの戦争が自衛の名の下に行われてきたのも事実です。
憲法9条による徹底した平和主義が貫かれてきた歴史にはそうした背景もあります。
それだけにこの憲法9条の精神を貫くためにはより具体的な武力行使への歯止めが求められています。
重大な解釈の変更であるにもかかわらず閣議決定に至るまでの過程で国民的な理解、そして議論が深まっていないという声が多く聞かれます。
なぜ今、この大転換なのか。
集団的自衛権の行使容認は限定的だといっても果たして歯止めは利くのでしょうか。

集団的自衛権
“歯止め”をめぐって

ナレーション: 集団的自衛権の行使容認に強い意欲を示してきた安倍総理大臣。
歴代の政権は集団的自衛権について憲法9条の下では「持っているが、使えない」としてきました。
集団的自衛権の行使は許されないという憲法解釈が示されたのは昭和47年の政府見解でした。
当時、ベトナムではアメリカが集団的自衛権を行使し戦争を行っていました。
日本は、集団的自衛権を憲法上、どう位置づけるのか政府は国会で見解を求められます。
そのとき示されたのが自衛権の行使が許されるのは日本が侵害を受けた場合に限るとして集団的自衛権の行使は憲法上許されないという解釈でした。


今回、安倍政権はこの見解の中にあった文言を引用して「集団的自衛権の行使は容認できる」という逆の解釈を導き出します。
昭和47年の政府見解をもとに当初、自民党が公明党に示した武力行使の新たな3要件。
47年見解にはなかった「他国に対する武力攻撃」を加えることで集団的自衛権の行使を可能にする内容となっています。
これに対し公明党は拡大解釈されかねないと懸念を示します。
集団的自衛権の行使にどう歯止めをかけるのか議論が続きました。
その結果、自民党が示した文案で「他国」とされていた文言を「日本と密接な関係にある他国」に修正。
また、「おそれ」とされていた文言を「明白な危険」に変えました。

政府は、従来の政府見解の基本的な論理の枠内で導いた結論だとしています。

しかし、今回の閣議決定では自衛隊の任務がどこまで拡大するのか具体的なことは示されませんでした。
与党協議では当初シーレーン・海上交通路での国際的な機雷の掃海活動など8つの事例について議論しました。
しかし、自民党と公明党の間で考えの違いが表面化し結論は出ていません。
どういう場合に武力の行使が許されるのか。
時の内閣が総合的に判断するとされています。

なぜ いま
集団的自衛権なのか


 他国を守るための戦争には参加しない?



国谷キャスター: 菅さん、この集団的自衛権行使の容認ですけれども、これは閣議決定によりますと、日本の自衛のための集団的自衛権の行使となるのであって、他国を守るための行使はしないというふうになっています。確認ですけれども、他国を守るための戦争には参加しないということですか?

管官房長官:それは明言してます。

なぜ今まで憲法では許されない、
とされていたことが、容認されるのか?

国谷キャスター: それは明言されていると。ではなぜ、今まで憲法では許されないとされていたことが、容認されるというふうになったのかということなんですけども、これまでは日本の安全保障は、日米安保条約の下、強大な在日米軍こそが、日本を防衛する最大の強力な抑止力になっているという考え方だったわけですけども、その安全保障環境の変化によって、この日米安保条約でも抑止力が不足、集団的自衛権によって補わなくてはならない事態になったという認識なんでしょうか?

管官房長官: 今ですね、昭和47年の映像がありました。
当時と比較をして、42年間たってるんですよね。
例えば国際化、その間にどのぐらい進んだかですよね。
今、わが国の国民は、150万人の人が海外で生活をしているんです。
そして1800万人の人が、これ、海外ですね、旅行を含めて渡航してます。
そうした時代になりました。
そしてまた、わが国を取り巻く安全保障の環境というのは、極めて厳しい状況になっていることも、ここは事実だと思います。
そういう中にあって、どこの国といえども、一国だけで平和を守れる時代ではなくなってきたという、まずここが大きな変化だというふうに思います。
そういう中で、わが国としては、例えばですよ、これ、総理がこの政府の基本的な方針を決定をしたときに、記者会見で事例の一つとして申し上げましたけれども、総理自身が国民の皆さんの生命と平和な暮らし、そして国の安全を守るために、現在の法制度で、そこについて大丈夫かどうか、そして、もし変える必要があれば、最善のほうはどうかということを、安保法制懇というこのいわゆる安全保障の専門家の皆さんにお願いをしたんですね、当時。
そして、その報告書を受けて、今回、政府の基本方針というものを、与党の中で11回議論をして、政府としての基本方針というものを閣議決定をしたんですね。
そういう中で、やはりこの日米同盟、ここを強化をする。
強化をすることによって、抑止力、これが高まりますから、その抑止力を高めることによって、わが国が実際、この武力行使をせざるをえなくなる状況というのは、大幅に減少するだろうと、そういう考え方のもとに、今回、新要件の3原則というものを打ち立てたわけであります。 
例えば、一つの例としまして、総理が言ったのは、例えば近隣諸国で武力攻撃があった場合、日本は国民、かつてはそんなに海外で生活していない、今は多くの人がいらっしゃいますから、その人たちを米軍に輸送をしてもらうということに、日米の間になってます。
その米軍の輸送船、これを現在の憲法では邦人を避難するための輸送船ですけれども、現在の憲法では、わが国に武力攻撃が発生しなければ、日本の海上自衛隊は防護する、護衛することもできないんですよ。
ですから、果たしてそうしたことで、国民の皆さんの生命を守ることができるのかどうか。
そうしたことも含めて、この隙間のない法整備をするということが、やはり極めて今、重要だろうと。
政府にとって、まさに政府の…という考え方の中で、今回、この閣議決定をして、閣議決定をした後に、これから法案を作るんです。
法案を作るのに3、4か月、これ、かかると思いますから、国会で法案をまず、私ども政府案を作って、そしてそれを国会に提出する、その段階で、国会でこれは議論しますから、そこで徹底をして議論をする、慎重に議論をしたうえで、国民の皆さんにも理解をしていただける、そういう努力をしっかりしていきたいというふうに思ってます。

国際的な状況が変わったからといって、
解釈を変更してよいのか?


国谷キャスター: 憲法の解釈を変えるということは、ある意味では、日本の国の形の在り方を変えるということにも、つながるような変更だと思うんですけれども、その外的な要因が変わった、国際的な状況が変わったということだけで、解釈を本当に変更してもいいんだろうかという声もありますよね。

管官房長官: これはですね、逆に42年間、そのままで本当によかったかどうかですよね。今、大きく国際化という中で、変わってることは、これ、事実じゃないでしょうか。
そういう中で、憲法9条というものを、私たちは大事にする中で、従来の政府見解、そうしたものの基本的論理の枠内で、今回、新たにわが国と密接な関係がある他国に対する武力攻撃が発生して、わが国の存立そのものが脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険という、そういうことを形の中に入れて、今回、閣議決定をしたということです。

「密接な国」を、その時々の政権が
あらかじめ決めるのか?

国谷キャスター: その密接な国というのが、どういう国なのか。
当然、同盟国であるアメリカっていうのは、想像できるんですけれども、それはあらかじめ決めておくのか、それともその時々の政権が、これは密接な関係のある国だと決めるのか、これ、限定的な行使ということをきちっと守っていくうえでも、影響がある問題だと思うんですけれども。

菅官房長官: そこについては、同盟国でありますから、アメリカは当然であります。
そのほかのことについては、そこは政府の判断、時々のこれは状況によって判断していくということに、これはなってくるというふうに思います。

時の政権の判断で拡大解釈されるのでは、
という懸念にはどう応える?




原記者: ちょっと懸念を持っている方の中では、時の政権の判断で、拡大解釈されるんじゃないかっていう懸念もあるんですけれども、その辺についてはどのように?

管官房長官: そこは、ここで、この新要件の3原則の中で、「わが国の存立が脅かされる」。「わが国」ですから。
そして国民の生命・自由、そうしたものの幸福の権利が根底から覆されるという、ここで一つのしばり。
また国民を守るために、「他の適当な手段がないこと」。
さらに必要最小限度の実力行使。
ここで新3要件の中で、しっかりと歯止めがかかっているというふうに思います。
あくまでも「わが国、国民」であります。

「他国への武力攻撃が発生し、
日本の存立が脅かされる事態」とは?


原記者: 他国への武力攻撃が発生して、これによって日本の存立が脅かされる事態というのは、これはなかなか具体的にイメージしにくいんですけれども、これはどういう事態、具体的に何かこう?


管官房長官: 例えば先ほど一つ事例で申し上げましたけれども、かつて北朝鮮が、日本の領空をミサイル発射しましたですよね。
例えば日本海で、そうした兆候があると、そういう中で、アメリカの船舶と日本の船舶が警戒をしてたとしますよね。
そういう中でアメリカの船舶が攻撃をされた。
これは日本の安全のために出動してくれているわけですから。
現在の憲法解釈では、それ、相手に攻撃することは、日本の海上自衛隊はできないんですね。
それは日本が武力攻撃があって、初めてできるわけですから。
果たしてそれで日米同盟が維持することができるかということです。
ここはやはり、非常に問題がありますよね。
こうしたことについて、切れ目のない、この法整備をしっかりしていこうということなんです。

機雷除去には与党内で
一致していなかったが、
政府としての立場は?

原記者: 与党協議の中の具体的事例などでは、シーレーン、中東の例えば海上交通路ですね。
あのへんは必ずしも意見が一致していなかったわけなんですけれども、政府としては、どういう立場を取ってるんですか?



菅官房長官: ここは海洋国家ですからね、わが国。

わが国にとって、エネルギーだとか、食糧、こうしたものの輸入、この安全のために、やはりこの安全を確保するということは、極めてこれ重要だと思いますよね。
そういう中で、現在、ホルムズ海峡、あそこで原油の約8割が、あそこを通ってきておりますから、あそこでもし紛争が発生した場合、ここについては、機雷がまかれたような事態になれば、わが国の国民生活にとってこれは死活的な問題になりますよね。
こういう状況にあったときに、先ほど申し上げましたけど、3要件、新たな3要件が満たす場合に限り、ここは憲法上、機雷を除去するために、動くことは可能だというふうに思います。
集団的自衛権
“歯止め”は

他国の強力な支援要請があった場合、
果たして断りきれるのか?


国谷キャスター: 本当に歯止めがかけられるのかということ、多くの人たちが心配していると思うんですけれども、非常にごく一部の容認だと。
そしてその歯止めがかかっているということは、政府のほうから聞こえてくるんですけれども、ただ憲法上、集団的自衛権の行使が容認されるとなりますと、非常に密接な関係にある他国が、協力に支援要請をしてきた場合、これまでは憲法9条で容認されないと、認められないということが、大きな歯止めになっていましたけれども、果たして断りきれるのかと。


菅官房長官: ここは、新要件の中に、わが国の存立を全うすると、国民の自由とかですね、そこがありますから、そこは従来と変わらないというふうに思ってます。

国谷キャスター: 断りきれると?

管官房長官: もちろん。
集団的自衛権
管官房長官に問う

日本独自のプレゼンス(存在感)が
失われることはないか?


国谷キャスター: もう一つの心配はですね、この集団的自衛権の行使が容認されるようになれば、抑止力が高まる、そして国際紛争を抑止することができるというふうにおっしゃっているんですけども、ただ、これまで日本は、非常に慎重のうえに慎重を重ねて、例えばアメリカとの一体化をしないように、非戦闘地域での活動だけに限るといったことなどをして、アメリカが敵対されるような地域でも、日本独自の活動を行って、一種の存在感というのを得られてきたと思うんですけれども、今回はそれを失うのではないか、そうした日本のプレゼンスというものを、失うおそれというのはありませんか?

菅官房長官: それは全くないと思います。
私、申し上げましたように、日本と関係のある他国に対する武力攻撃が発生をし、「わが国の存立が脅かされ」て、そして「国民の生命、そして自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」ということで、しっかり歯止めかけてますから、そこは問題ないと思ってます。





集団的自衛権で第三国を攻撃したら、
日本から攻撃したことになるのか?


国谷キャスター: ただ、集団的自衛権の行使が、密接な関係のある他国のために、もし行使した場合、第三国を攻撃することになって、第三国から見れば、日本からの先制攻撃を受けたということになるかと思うんですね。
それは戦争っていうのは、他国の、自国の論理だけでは、説明しきれないし、どんな展開になるか分からないという、そういう危険を持ったものですから。

菅官房長官: こちらから攻撃することはありえないです。

国谷キャスター: しかし…。

管官房長官: そこは。

国谷キャスター: しかし集団的自衛権を行使している中で、防護…。
菅元首相: ですから、そこは最小限度という、ここに3原則という、しっかりした歯止めがありますから、そこは当たらないと思いますよ。

東シナ海や南シナ海に対して今後、
政府としてどう取り組んでいく?


原記者: 抑止力を高めるということは、緊張感も高まるということにつながると思うんですけれども、今、東シナ海ですとか、南シナ海では、現実問題として、日本というよりは、中国側の事情で、緊張感が高まっているわけなんですけれども、こういった問題に対して、今後、政府としてどういうふうに取り組んでいく考えですか?

菅官房長官: これはぜひご理解をいただきたいんですけど、わが国は10年前と比較をして、防衛力はマイナスです。
そして安倍政権になって、私たちが防衛費、よく軍国主義とか、他の国に言われるときありますけど、私たちは0.8%しか伸ばしてないんです。
そして昨年の暮れですね、防衛大綱というものを決定をしましたよね。
その中で、中期防衛計画というのは、現在と同じ5年間の防衛費というのは現在と同じぐらいですから、そこは明らかに日本の安全保障というのは、変わらないということが一つの証しじゃないでしょうか。
しかし、近隣諸国ですよ、10年で4倍になってる国さえあるじゃないですか。
そういう中で、2桁、まだ軍事費を伸ばし続けている国があります。
そういう意味において、やはりわが国の取るべき道というのは、やはり日米関係を強化して、抑止力を高めていく、このことを私たちは、今回、閣議決定をして、これから法案にするについて、法案を作るのに3、4か月と言いました。
これは約1年かかると思いますよ。
そういう中で、国会で審議をして、そこの日本の新3要件を含めて、国民の皆さんにしっかりとそれは理解をしていただくように、丁寧にこれから国会で審議をしていきたい、こういうように思っております。

不安や懸念は、払拭できるのか?


原記者: 不安や懸念というのはありますけれども、このへんは払拭できますか?

菅官房長官: ですから国会審議の中で、しっかりとこれは慎重に、一つ一つ、具体的なことを挙げながら、国民の皆さんに間違いなく理解をしていただけると、このように思っています。

2014/07/07

長編コラム:集団的自衛権は、正しくも、必要も、抑止効果もない(概論と各論)



1.集団的自衛権の行使容認は、正しくない(各論


集団的自衛権の行使容認は、正しくも、必要でも、抑止効果もない。

我が国が新たに掲げる集団的自衛権行使の3要件に従って行使される武力は、時の政府の判断により恣意的に適用される可能性があり、また他国の武力行使と一体化することで限定的でなくなる可能性がある。

さらにその非限定的な武力行使によって失われる他国の人命について我が国の国民は責任を負う覚悟を持たない。また我が国政府は、国内外でこれを裁く実効的な法体系を持たない。

したがって、自ら掲げる原則を守らず、他国の人民を多く殺める可能性があり、かつその責任をとる体系を持たずとも武力行使を行うことを可能にする集団的自衛権の行使を容認することは「正しくない」。

2.集団的自衛権の行使容認は、必要ない(各論


我が国の従来の憲法解釈は必要以上に個別的自衛権に基づく武力行使の要件を厳格化し、細分化してきた。結果として、従来解釈ではできないことが増え、解釈の限界が生じているかのような論説が主流となった。

しかしそれは国家の基本原則を抜本から変えることが必要なほどの誤謬ではなく、運用面で非現実的な仮定や想定を行ったことのツケを払っているに過ぎない。この運用面での修正を施するために、憲法の基本原則を変える必要はない。

政府が示した事案の多くは、個別的自衛権の範囲で対処可能なものであり、必要なのは自衛隊の部隊行動基準(武器使用基準)を緩和することであり、そのための要件を整備することである。これは解釈改憲を必要としない。

また政府は最悪の事態を想定して有事の際に集団的自衛権の行使が必要であると説明してきたが、最悪の事態に至らないよういかなる努力がなされるのかについてはまったく十分な説明がなされてこなかった。

また、政府の想定は現状の国際情勢を現実的に考慮したものではなく、あらゆる外交努力が尽くされるという一般的な国家の自衛権行使の要件をすら想定していない。

このような架空の想定の下、政府としての責任を全うすることの想定なしに、現行の体制で十分対応可能な事案について、集団的自衛権の行使を容認する「必要」はない。

3. 集団的自衛権の行使容認に、抑止効果はない(各論


集団的自衛権の行使容認に抑止力向上の効果はない。アフガン戦争をはじめとする非対称的な「テロとの戦争」の成果を見ればわかる。

第二次世界大戦ですら5年で終結したというのに、アフガン戦争だけで13年も続き、民間・軍人合わせて人約2万3000人の命が失われている。テロの脅威は世界に拡散し、かつ増大した。

おかげで世界各地でテロ戦を展開しなければいけなくなっており、米軍はいよいよ単独でも、集団でも対処しれきなくなっている。

では対称的な戦争はどうか。

ウクライナ内乱においてロシアは巧みにその影響力を駆使して親ロシア派の政治勢力を抱き込み、主権国家の領土を平和的に併合するという戦争行為に至った。

ウクライナが供給する天然資源エネルギーの供給はNATO諸国には死活的に重要である。さて、NATO諸国はその経済安全保障上の脅威であるロシアの行動にどう対処しているだろうか。

集団的自衛権の行使を宣言しただろうか?

否である。

では肝心要の中国に対する抑止効果はどうか。

はっきりいって、行使容認の前後で変化はないだろう。それは、現行で既に個別的自衛権に基づく片務的な日米安保条約が機能しているからだ。

安倍政権は米国の影響力低下を念頭に、日米安保による対処ではなく、日米安保+アセアン+2+オセアニア等との共同戦線による抑止力強化を目指している。

しかし日本の軍事力が抜きんでれば、日本が各国防衛のために戦争に駆り出されることになる。これでは、日本が各国から得られる微々たる安全保障に比べ、日本が与える保障の負担が大きすぎる。

およそ、互恵的相互関係とはいえない。

よって、従来の集団的自衛の枠組みでは、いくら束になってもアジア各国の軍事力では中国に対抗し得ない。米軍の抑止力ならば、個別的自衛権が認められる現在でも十分に発揮されている。

集団的自衛権の行使容認は、もはや現代において抑止効果を高めることには繋がらない。逆に各国の紛争に巻き込まれる蓋然性が高まるだけで、百歩譲っても、「百害あって一利しかない」。

4.おわりに


以上のように、 集団的自衛権の行使容認は、正しくも、必要でも、抑止効果もない。むしろ間違いが起きるリスクを増やし、多くの他国国民を殺める可能性を高め、責任のとれない事態に直面するだけである。

現代においてNATOのような軍事同盟は戦争を発生・継続ははさせても抑止はしない。ロシアのような大国の動きを牽制することすらできない。中国にしても同じだろう。

日米同盟は確実に機能している。にもかかわらず「不足」があるならそこを補える体制を作ればいい。だが、アセアンとの連合でそれが為せるか。中国を孤立化させるのではなく、取り込む必要があるのではないか。

日本に必要なのは、確かな戦略に裏打ちされた外交力であり、満足に使い方も解らない軍事力を力の背景とした外交安保政策を展開することではない。

百害あって一利しかない国策の転換など、それこそ無用の長物である。

以上

各論に完全には納得できなくても、理解できなくても、容認反対派の皆さんにとって考えることの刺激=food for thoughtとなれば幸いです。

ご精読を感謝します。

長編コラム:集団的自衛権は正しくも、必要でもなく、抑止効果もない。各論①集団的自衛権の行使容認は「正しく」ない

集団的自衛権 の行使容認は「正しく」も「必要」も「抑止効果」もない。

まず「正しいか否か」という点は、主観が多く含まれると思われるだろうが、これは過去の事例を元に定量的に根拠を示すことができる。

また「正しい」とする理由には実利的側面と人道者義の錯誤があることを区別する。

1.実際は経済利益=国益優先なのに国際人道主義=国際公益重視であるかのように装う詭弁


集団的自衛権の行使容認を謳う者は、経済的利益と国際人道主義を一緒くたにして語る。まず経済的利益の確保としては、シーレーンの保護等、エネルギーの安定確保を理由に海自による海上阻止行動への参加が「必要」とする。これは一国の国益に過ぎないが、それを国際益であるかのように見せる。

集団的自衛権のの行使容認を訴える者は一方で、では邦人を守る他国艦艇を守れなくてよいのかと、今度は国際人道主義の見地から情緒に訴える。勿論、守るべきである。その為に国際的に認められた共同部隊防護の原則がある。これを実践できるよう武器使用基準を緩和すればよい。解釈改憲は必要ない。

つまり、国際人道主義に則り相互的に共助すべきという主張はもっともだがそれこそ基準の緩和のみで対応できる。すると残るのはエネルギーの確保という経済的理由のみとなり、そのために集団的自衛権の行使容認が「必要」なのだという必要論の化けの皮が剥がれる。

人道的事由と「国際公益」に関わる事態は現行の体制に少し修正を加えれば対処できるのに対し、経済的事由という「国益」に関わる事態については、現行の法体系では実質対応しきれない。それだけのことである。

所詮、経済的事由という国益重視から解釈改憲と法整備が「必要」なのであり、さも人道主義という国際公益に重点を置いたかのような主張は詭弁なのである。 国際人道上の錯誤は、これに輪をかけて深刻である。

2.人道上の理由の恣意的利用と人道的被害への荷担


政府が掲げる #集団的自衛権 の行使容認の三要件のうち、「明白な危険」の定義が明確でないため、どういった事態で「人道上」の理由が恣意的に適用されるかがわからない。正しく運用されない危険性は残る。

邦人保護の為と日本が主張しても、武力行使であればそれを「侵略」と捉えられかねない。侵略の国際定義は確定しているので、国際法違反と断じられる可能性すらある。

これが一つ。

もう一つは、三要件に掲げる国益確保のために米国等が主導する集団的自衛権或いは集団安保措置に基づく軍事行動(国連承認のものであるかに関わらず)に参加した場合に生じるいわゆる「付随的被害」の程度とその責任だ。

現在も継続中のアフガン戦争で、日本はその開始直後の01年から09年まで8年間、憲法上の疑義から民主党政権に活動を停止されるまで「給油支援」という名で事実上の兵站(ロジスティクス)支援をインド洋で行ってきた。

2008年当事、インド洋で日本が兵站支援したのは海上阻止行動OEF-MIOに関わる艦艇のみでなく、イラク攻撃OIFに関わる艦艇が含まれていたことが国会で米軍側の資料から明らかにされた。

このことから、新解釈適用以前から日本の「国際協力」は武力行使と一体化していることが疑われてきた。この件に対する政府の反証は弱く、これを覆い隠すように国際需要に基づく「必要論」が展開された。

日本の支援が武力行使と一体化していることが意味するのは、その支援を受けた他国の兵器が、日本と直接敵対しない国の一般市民を殺傷しているということである。これは直接兵器の補充を支援していなくても同じことである。

つまり、他国民を犠牲にすることを厭わない国益確保のための武力行使とこれに伴う犠牲が、集団的自衛権の行使がもたらす必然としての結果なのである。

集団的自衛権が他国民を犠牲にすることを厭わない武力行使であることは、アフガン戦争やイラク戦争のボディカウントが証明している。各戦争でこれまで死亡した各国兵士の数と各戦争の非戦闘員の死亡統計を累計してみればわかる。

アフガン戦争だけでも、十年以上に及ぶ戦闘で多国籍軍側の死者数が数千人(約3000人)規模なのに対し、「付随的被害」による民間人の死者数はこれをはるかに上回る(2010年国連統計で既に約14000人)。 

フガン戦争の民間人死者数には、誤認による正当な「付随的被害」と呼べるものも、敵勢力掃討に不必要に巨大な火力或いは殺傷力を持つ兵器を使った結果の「予測し得た付随的被害」も含まれている。14年現在その総数は2万人に及ぶ。 

集団的自衛権行使を容認し、いかなる正当事由を付けようともこれに加担することは、その行使によって生じる集団的責任も共同で負うことを意味する。国際刑事上の責任は勿論のこと、道義的な責任も免れない。とくに日本の場合は国際刑事裁判所の締約国なのだから猶更である。

3.まとめ


集団的自衛権の行使容認は、


  1. 国際公益の確保を目指すとしながらその実は不必要な体制転換で国益を追求する利己的な行為であり、
  2. 尚且つその行動は限定的でない武力行使との一体化を免れず、更に
  3. その結果が甚大な人道的被害を生むことから、

「正しく」ないのである。

集団的自衛権の行使容認派は、


  1. 我が国にとって「正しい」とされることが他国にとってそうであるかどうか
  2. 政府が逸脱行為をとらないことを保障できるかどうか
  3. 行動に伴う道義的責任を負う覚悟とその為に国際批判の矢面に立つ覚悟があるのかどうか

を自問自答したらいいと思う。

邦人保護を隠れ蓑にした自国利益の確保という正当化事由は脆い。その実、国際的に客観的でない基準で自国の存立のみ(米軍へのお付き合い等)を自己の尺度で測った結果の武力行使であれば、その結果責任は更に重い。それは選択した者と支持した者の責任になる。

集団的自衛権 容認を支持する人間は、その法律的・道義的責任を負う覚悟があるのだろうか。一億総無責任社会の現代日本の人間にそんな立派な“愛国者”がいるとは思えない。その責任を自ら負う覚悟があるならば、戦場の最前線に赴いてその責任を全うすべきだろう。

「集団的自衛権 に賛成する人は「派兵すること」「殺し殺されること」に賛成」という私の極論は、ここから導かれる。

いくら自国の尺度で「正しい」と主張しても、結局は、国連憲章で禁じられる武力行使を行うことに付随する、国際社会の一員としての相応の責任を、自衛官という同じ同胞である他者に丸投げしているだけなのである。

戦争への加担を反対する時に「なら自分が戦場にいけばいい」と言うのは極論にしか聞こえないかもしれないが、そこには、他者の立場に立って考え想像すること(思い遣ること)を相手に促す理がある。相手の良識と良心に訴える有効な方法なのである。

現場の自衛官が、国民・国家への忠誠と道義的・倫理的ジレンマの狭間で板挟みになるだろう彼らの苦悩に共感し、彼らを同胞として守る立場から「なら自分は戦場に行けるのか」と自他共に問うことは極論でもなんでもない。

4.おわりに

現代の基準で本当に「正しく」あろうとするならば、自分がおよそ想像すらできないことを他に求めないことから始めようではないか。それが責任ある国家への第一歩だろう。国際的な説明責任を果たさない他国を模倣してまで「普通の国家」である必要はない。

以上

次回は、 集団的自衛権 行使容認の「一般の必要論」についての反論を展開する。

尚、「抑止効果」の観点からの必要性については、この「一般の必要論」とは区別して別途論じることにする。

長編コラム:集団的自衛権は正しくも、必要でもなく、抑止効果もない。各論①集団的自衛権の行使容認は「正しく」ない