Click the title for the original post "The Journalists Formerly Known as the Media: My Advice to the Next Generation" by Prof. Jay Rosen
ニューヨーク大学ジャーナリズム学部のジェイ・ローゼン(
Jay Rosen)助教授が、2010年9月パリ政治学院でジャーナリズムの学徒たちに向けて行った講義の内容が興味深い。とくに関心を引いた後半部分のみを抜粋して翻訳してみた。
『かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト』
The journalists formerly known as the media
かつて聴衆と呼ばれた人々(2006年)
The people formerly known as audience
「かつて聴衆と呼ばれた人々」(The people formerly known as audience)は、その存在と、誰もが知る地殻変動によるパワーシフトが起きていることを「メディア」に知らしめようとしている。船の乗客が、自身の船を持ったようなものだ。「執筆するリーダー(reader)」「カメラを構えたビュワー(viewer)」。かつては「核化」されていた「視聴者(audience)」たちが、いまでは容易に互いに繋がりあって、世界に自分の言葉を発信することができる。
今日は、この考え方に一つ付け足したい。
なぜなら、
「かつて聴衆と呼ばれた大衆」の誕生により、
「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」(The journalists formerly known as the media )も誕生したからだ。私たちに代わってこの定義を見つけだす機会が、次の世代のジャーナリストの卵である君たちに委ねられている。
デジタル革命は因果律を変えてしまった。新しい力の均衡が生まれ、生産のツールや分配の力が、
「かつて聴衆と呼ばれた人々」の手に移った。
だから君たちには、
「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」に自ら望んでなる機会がある。「そこにいる」受け手側の人々にジャーナリストが何を与えられるかを新たに実践してみせる、いわばキャリア組だ。「新たに」とは言っているが、実際は長きに渡る闘いの新たな章の幕開けという意味にすぎない。闘いとは、いかにして、物事を注意して知ろうとすることにより、それを自らの知識とし、何を為すべきかを主張することを是とす
るパブリック(public)を誕生させるかということだ。
「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」という概念について、もう少し掘り下げてみるとしよう。私がジャーナリズム学研究本の中で一番好きな言葉を使うとしよう。マスメディア研究で有名な英国の作家であり社会学者である
レイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)のものだ。
ウィリアムズは1958年に著書『文化と社会』でこう書いている。
「大衆というものは存在しない。人々を大衆としてみる方法があるだけだ」
解説すると、ウィリアムズは地方紙のいう
「リーダー」(readers)すなわち、同じ地に住み学校や仕事に通い、同じ待ちを歩き政治に参加する人々が、英国全土で売られる大手新聞やタブロイド誌のいう「リーダー」とどう違うのかを比較しようとしたのだ。
人々を
「大衆」(masses)とみなす技術は、マスコミやマスメディアのプロたちが1850年から2000年位までの約150年間専売特許とし続けた技術だ。
しかし現代になって、これが単なる
インターバル(interval)に過ぎなかったということ。ひとつの
フェーズ(phase)でしかなく、パブリックに届けるツールが一時的に私たちの手に密集していたに過ぎなかったことが分かってきた。
プロフェッショナル・ジャーナリズムの誕生は、1920年代にまで遡り、このフェーズの間ずっと生きながらえてきた。しかし、もう一度いう。これこそが、君たち次の世代が解放されるべき「枷」なのだ。「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」は、別の技術を専売特許とすることでこの枷から自らを解き放つことができる。それは、「人々」を、自らメディアを創る力を持つに至った「パブリック」とみなす技術だ。
(※太字:ローゼン教授本人が「これが言いたくて書いたようなものだ」とする強調指定部分)
私からのアドバイス
最後に、
「人々をパブリックとみなす」というこのフレーズが、君たちの世代のジャーナリストにってどういう意味を持つかを、これに内包される十の意味を説明してこの講義を締めくくるとしよう。
1. 「リーダー」(readers)「ビュワー」(viewers)「リスナー」(listener)、「コンシューマー」(consumer)といった言葉を「ユーザー」("users")に置き換えること。
ジャーナリズムの一端を担う人々のことを私たちは何と呼んでいるか思い起こしてほしい。
私は、
「プラットフォーム中心」の考え方を極力なくすことが肝心だと思う。彼らに届けるツールに合わせて呼び名を変えるのではなく、単純に
「ユーザー」と呼ぶのだ。
デイヴ・ワイナー(Dave Winer)が
言うように。
「ユーザー」は、より活動的なアイデンティティを持つ。どのプラットフォームでも使えるし、さっきも言ったように、ユーザーをどのように捉えるかが、ジャーナリストとしての自分の有能さを決定付ける。
2. ユーザーは君たちよりはるかに物を知っている。これを忘れないこと。
これは
ダン・ギルモア(Dan Gilmour)の有名な宣言
「私の読者は私より物事を知っている」(
My readers know more than I do)から
ヒントを得ている。つまり、集約的に捉えれば、受け手側の人々は、たった一人のジャーナリストよりもはるかにより多くの知識を得るし、より多くの接触があるし、より多くを経験するし、より多くのアイディアを持つということだ。これはずっと真理だった。1950年代も真理として通用した。だが、インターネットは、そういった人々、つまりジャーナリストよりも多くの物事を知っている人々が、実際に君たちに向き合って
リーチアウト(reach out)して、その知識を届ける(そして教える)ことを可能にした。
こう考えてみて欲しい。
ニューヨークタイムズが
「持つ」(own)最大の売りは何だろう。その名前と名声だ。二番目の売りは?スタッフの才能と経験だろう。では三つ目の売りは?洗練されたユーザーとそのユーザーが持つ知識だ。これらの「売り」を難なく維持できるよう、その売り物を常に洗練し続けないと、このとてつてもない戦略的アドバンテージを生かしたことにはならない。タイムズのデスクは、このことを十分承知している筈だ。
3. ジャーナリズムの相互化という大きなパワーシフトが起きていることを認識すること。
これは、「ザ・ガーディアン」の編集長である
アラン・ラスブリッジャー(Alan Rusbridger)の考え方で、「相互化された報道組織」(
"the mutualized news organization")のことを意味する。
彼が言っているのはこういう事だ。
私たちには、エディティングや、リポーティング、スペシャリティ、(情報への)アクセス、肩書き、そしてプロフェッショナルとしての職業倫理や膨大な読者層等の人々が信頼するブランドという価値を提供することができる。このコミュニティの「内」にいる者は、個々にそれらの視聴者を獲得したり視聴者に情報を届けたりすることはできない。だがこれらをそれぞれ「組み入れる」(include)ことで、個々ではおよそ不可能な、多様で専門性に富んだ現場レポートを届けることができるわけだ。
私たちはこうした価値を届けることができる。だが、それはユーザーも同じだ。だから、彼らも
「組み入れる」のだ。
「人々をパブリックと見なす」とは、つまりそういうことなのだ。
4. 人々が参加したくなるように物事を描くこと。
人は参加の意欲を持てば、情報を自分で探しだそうとする。情報のプロバイダは、この関連性をよく理解しておく必要がある。かつて、私は
エコノミスト誌にこう語ったことがある。
「個人的には、ジャーナリストたるもの、人々が政治に参加する意欲を持てるようなに物事を描くべきだと思っている。それがジャーナリストの存在意義だ。だが、私たちはあまりにも、情報通のアナリストであるかのように捉えられがちで、私たち自身も一定の距離を置いて物事を捉えようとしがちになる。まるで、私たち自身が私たちの民主主義社会における傍観者であったり、善良な市民を操り人形にしているかのように。可笑しな話だろう?」
この記事の発売後に
エコノミストのライターが
のちほど書いた次の考え方は正しい。
「政治に限ることはなかったかもしれない。より一般的に考えて、政治的な営みであれ、ローカルな営みであれ、市民の営みであれ、文化的な営みであれ、人々があらゆる営みに参加できるよう、ジャーナリストは物事を描くべきなのだろう。それが、ジャーナリストの仕事なのではないか」
5. 誰でも「できる」からといって誰もが「する」わけではないということ。
ソーシャルメディアやネット行動学を学ぶ者ならば、
「1パーセントの法則」(
one percent rule)は十分に認識していると思う。この法則は、オンライン上のあらゆる環境で観測されているからだ。
これは経験則に基づく新しい法則で、100人の人々がオンライン上に居たとしたら、そのうちの1人がコンテンツを創り、10人がコメントしたり、改善を提案するなどしてそのコンテンツとインタラクトする。残りの89人はただ閲覧するだけだ。つまりどういうことかというと、オンラインにあまり期待するなということだ。映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の台詞じゃないが、
「自分で創れば、彼らはやってくる」(if you build it, they will come)。
ただ、リアルの世界と同じで、問題は創る
「彼ら」をどうやって見つけるかだ。
これを私流に言うと
「誰でもできるからといって誰もがするわけではない」ということになる訳だ。だが、「誰もできる」という部分には依然として価値がある。なぜなら、
「誰」が最初に
「創ろう」という誘いを受けるか分からないからだ。
この
「1パーセントの法則」を把握していれば、現実的に物事を見ることはできる。人々を「パブリック」と見なすからと言って、彼らが意欲を持って思って事に臨んでくれるなどと希望的観測を抱いてはいけない。
「かつて聴衆と呼ばれた人々」が何をできるか、できないかを過小にも過大にも評価しない。これが大切だ。
6. ジャーナリストは特別な階級ではないということ。
単に
知識に明るい情報通の市民(just a heightened case of an informed citizen)であるというだけで、ジャーナリズムは脳外科手術の執刀やボーイング747を操縦するような高等技術を必要とするわけではない。プロのジャーナリストは、どう情報を仕入れ、質問を投げ、ストーリーを語り、点と点を線で結ぶかを知っている。これは秘伝の技でも特殊技能でもない。どんな賢い一般市民でもできる、ちょっとした高等技術でしかない。この技術は、ディベートなどで記者に変わって一般市民が質問に立つときなどに垣間見ることができる。たいてい、彼らはプロのジャーナリストと同等あるいはそれ以上の技術を発揮する。
ここにヒントがある。
7. 私たちの権威は「私はここにいるが、貴方はここにいない。だから私が伝えてやろう」というこの一点に帰着すること。
もし
「誰もが」メディアを作り上げ、世界と共有できたら、一体プロのジャーナリストの何がそんなに特別なんだろう。どこに、そのジャーナリストの伝えることに耳を傾ける価値があるのだろう?プレスの証明書?署名記事?大手通信社に雇用されているという事実?そのどれでもない。
プロのジャーナリストにとっても最も信頼に足る権威の源は、やはり
ジェームズ・キャリー(James W. Carey)がいうように
「レポートすること」(発表ジャーナリズム)だ。自身がレポートしている時こそ、正にユーザーたちに向かって、
「私はここにいるが、貴方はここにいない。だから私が伝えてやろう」と堂々と言える。
こうとも言える。
「私はデモにいたが、貴方はいなかった。デモで警察がどんな行動をとったか教えてやろう」
さらに、もう少し変形させると(ただしことのエッセンスは保つと)こうとも言える。
「私は爆発が起きた石油の採掘現場で働いていた作業者を取材したが、貴方はしていない。彼らがなんと言ったから教えてやろう」
さらに、こんな風にも言える。
「私は実際にあの書類を精査したが、貴方はしていない。あの書類から何がわかったか教えてやろう」
君たちの権威は、
「仕事」をすること(when you do the work)で初めて生じる。つまり、アマチュアやブロガーが同じ
「仕事」をしたとしても、同じ権威が得られるのだ。人々を
「パブリック」と見なすということは、恨みっこなしでその権威を彼らに認めるということだ。
8. 私たちは、どうにかして人々の要望を汲み取り、要望する術のない人々の要望に応えなければならないこと。
Webは人々の要望がどういうものかをいともたやすく私たちに見せてくれる。したがって、ユーザーの行動を推し量ることもたやすい。人々が
「いま」何に興味を持ち、何を探し、何をクリックし、何を見ているかが、一目瞭然で分かる。この
「生きた情報」を優秀なジャーナリストならどう扱うか。答はもう喋ってしまった。人々の要望を汲み取り、要望する術のない人々の要望に応えるのだ。なぜなら、彼は
「それ」が何であるかまだ自覚していないからだ。
実はこれらのことには明確な関係性がある。要望を汲み取るのは巧ければ巧いだけ、
「ユーザー」が君がこう言ったときに耳を傾ける確率が高くなる。
「貴方はこんなことは大したことない、興味ないと思うかもしれない。だがこれは間違いなく重要な情報です」
あるいは、こういう言い方もある。
「これはいい!」
「ユーザー」が求めるものを無視するのは愚かだが、クリック率で編集するのもまた別の意味で愚かだ。
「ユーザー」に対する信頼は、この中間にある。わかるかな?
9. 信頼されたいのならば「曖昧な視点」の立場を取らないこと。
むしろ、どの立場からなのかを明確に伝えたほうがいい。人々を
「パブリック」として扱うということは、彼らを
「上から目線」で捉えないことを意味する。はっきりとした立場、利害、視点、あるいは学術的用語で申し訳ないが
「状況付けられた自己 」(situated self)はないと主張するよりも、
「ユーザー」と同じ目線に立って、自分の立場を明らかにすることだ。
デイビッド・ワインバーガー(David Weinger)が言うように、
「透明性こそ新たな客観性である」(
"transparency is the new objectivity.")。
「曖昧な視点」の立場をとらず、むしろ立場を明確にすれば「ユーザー」の信頼は勝ち取りやすい。
(私は
こうして実践してみせた。)
10. デトクヴィル(DeTocqueville)が言ったこと、すなわち「新聞がつながりを創り、つながりが新聞を創る」という言葉をじっくり噛みしめること。
フランス人の
アレクシス・デトクヴィル(Alexis De Tooqueville)が、1830年代にアメリカを訪れたときに残したのが、
「新聞がつながりを創り、つながりが新聞を創る」("newspapers make associations and associations make newspapers.")という観察だった。彼はおそらくこう言いたかったのだろう。
「共通の関心があってそれを互いに話したいとき、それこそが優秀なジャーナリストにとって絶好の機会となる」(wherever people have a common interest and wish to discuss it, there lies an opportunity for a smart journalist.)
私たちの生きる現在を目まぐるしく塗り替えていっているのは、似たような人々がいともたやすく互いを見つけ合い、情報を共有し合い、知識を蓄積し合い、そのインタラクションの結果を世界に向けて発信できるということ。つまり、同じ関心や、問題や興味を共有する人々が互いに出会うコストが急落しているということだ。
ネットはこの行為をごくありきたりなものにしつつある。たとえば、医療では完治できなかった症状を持つ二人の人間が、互いをネットで発見して互いに抱える不満を話し合うようになる。賢いジャーナリストなら、このことに気付き、十分ストーリーの価値があることだと分かるだろう。
関心を持ち情報に長けた大衆という偶像を実体化、あるいはより現実化する闘いはまだ続く。テクノロジーやマーケットが変われば、その過程の産みの苦しみで新しいことが「考えられる」ようになる。すなわち、ジャーナリズムそのものが、次の成長過程に入り、現在を卒業したと思えばいい。
幸運を祈る!
以上
Translated by Etranger