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2014/06/08

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと③「ユニット・セルフ・ディフェンス」の実態Ⅰ(概要編)

デューク大学の法学専門誌"JOURNAL OF COMPARATIVE & INTERNATIONAL LAW"に掲載された論文『単独的自衛権の根拠と武力行使との関わり』は、外務省が"唐突"に主張し始めた「ユニットセルフディフェンス」といわれる"国際ルール"の実体を正確に読み解く。

この「単独的自衛権」という言葉は、Unit Self-defenseの私独自の邦訳であり、国際法学でもまだその法源すら確定していない曖昧な概念に便宜上、日本語名を与えたものである。デューク大学のこの法学論文は、その法源を模索し、この権利は慣習国際法上成立していると主張する。

まだ精読中だが、どうやら日本政府は国家固有の権利である個別的自衛権及び集団的自衛権と、国家が統制する実力組織のレベルで行使しうる「単独的自衛権」をごちゃまぜにして議論を進めているらしいことは、よくわかった。のちほど、この概念の法源等の論理的整理について再び連投ツイートする。



デューク大法学研究論文。2012年当時の肩書きだが、極めて信頼できる人物による実務的な論文であることが判った。著者のCharles P. Trumbulは米国務省法律顧問室付き弁護士顧問だったのだ。その同氏が「単独的自衛権」に明確な定義はないとするのだから事実なのだろう。

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単独的自衛権の法源は各国の交戦規則(ROE)に辿れる

米国務省法律顧問C.P.Trumbullの2012年論文は、「単独的自衛権」(unit self-defense)を国際法上、国家の自衛権に付随する権利とする学説や、その行使にかかる制約、国家・軍・多国籍軍、及び兵士個人にかかる責任等を考察する。

トルンバルは、単独的自衛権の法源として、各国・条約機関(NATO)・国連等が運用するROE(交戦規則)を挙げる。その根拠は各ROEが各国及び多国間の法体系に基づく合議又は合意によって形成された規則だからだという。

とりわけ、国連職員の保護と安全確保に関する条約や各種国連PKOのROEでは、PKO部隊要員として、他の要員や部隊それ自体にも単独的自衛権が認められていることを示唆する記述が条文にがあるという。

たとえば、国連リベリアミッションUNMILのROEでは、「自己及び他の国連要員又はその他の国際要員を敵対行為或いは敵対的意図から防衛するために武力を行使することを容認した」とある。

この見解からは、日本の外務省が“唐突”に「国際ルール」だとして主張したことの合点がいく。というより、これまで政府が主張していたのは、ほとんどが「国家の自衛権」ではなく「単独自衛権」だったのだと考えれば、筋が通る。

些末というよりお粗末な政府の議論

つまり、政府自体、或いは首相直下の安保法制懇そのものが、単独自衛権と国家の自衛権を区別せずに、或いはその区別をできないまま議論を進めていたのだろう。

2012年の段階で米国務省の法律顧問が「単独的自衛権」に明確な定義や法源はない」とするのだから、日本の学術研究レベルの“有識者”が、単独的自衛権と集団的自衛権を混同していたとしても不思議ではない。

ただ看過してはならないのは、その区別がなされないまま、集団的自衛と単独的自衛が混同されたまま、具体的な事例が「集団的自衛が容認される状況」として提示され、それが高い政治レベルで討議されていることだ。

トルンバルは本編の注釈で、氏の論文は「平時における単独的自衛権について論じているのであり、想定上、兵士たちは戦闘員ではない」と断りを入れている。

考えてみれば、政府の想定(事例)も殆どが平時の想定なので、この論文に書かれていることはそのまま適用できるということにもなる。

自衛隊には法源となる独自の交戦規則(ROE)がない

だがむしろ問題なのは、既に何度も海外に派遣している自衛隊に、この「単独的自衛権」の法源となり得る独自のROEが無いことだろう。

これは、国家の集団的自衛権を容認する以前の問題であり、かつ独立して取り組むことが可能な課題である筈だ。

自衛隊のROE(自衛隊用語では部隊行動基準というらしい)については、最近ではスーダン派遣時に、現地情勢が不安定かつ劣悪なことから、自衛官の安全確保のため武器使用基準の緩和が民主党政権時代から検討されてきた。

しかし結局、その場限りの改訂となり、恒久的なROEは策定されていない。

こうした中途半端な対応により自衛官の生命を危険に晒すのは文民統制を行う政治側の怠慢だ。

集団的自衛権云々の前に、確実に自国民である自衛官の安全が確保できるようにするのが政府及び国会の務めだろう。

第二次安倍内閣は、そこをすっ飛ばして、国家の自衛権と単独の自衛権をごちゃまぜにして、最終的に国家の自衛権に引きずられる形でなし崩し的に単独自衛権の拡大を図っているのである。

単独的自衛権は国家の自衛権が不在でも行使できる

トルンバルも論文で述べていることだが、実は単独的自衛権(USD)は、国家の自衛権行使が不在の場面でも発揮できるという。それは、そもそもUSDが組織でも国家でもなく個人の自衛権(正当防衛の権利)に由来しているからだ。

軍隊という国家の統制する実力組織に属していることは、個人の生来の権利である(各国法体系に準ずるがほぼ普遍的)個人の自衛権を行使することを妨げない。但し、当該権利を行使する際には、正当防衛の要件が満たされる必要があることは言うまでもない。

また国連PKOのような多国籍部隊に所属している場合も、部隊に対する攻撃は自動的に集団的自衛権の行使を認めるものではなく、あくまで個々の連合部隊、国家単独の部隊、部隊要員などの単独的自衛権の行使が認められる。そしてその行為はPKOのROEにより統制される。

第二次安倍内閣の解釈改憲のロジックは、単独的自衛権を自衛官或いは自衛隊の部隊が行使するには、国家の集団的自衛権行使が容認されていなければならないということなのである。まずこれが事実かどうかを確認する必要がある。

国連PKOが国連憲章第七章に基づく集団安全保障措置であることは、先日説明した通りだ。国連決議に基づくこの活動それ自体は、個別或いは集団的自衛権の行使ではない。

但し、個々の部隊及びその要員は、この活動の中で単独的自衛権及び個人の自衛権を行使できる。

第二次安倍内閣の主張は、この単独的自衛権(ユニットセルフディフェンス)が、現行の法体系では自衛官の安全のみを保障するもので、部隊に所属する他国の要員が攻撃に遭った場合に「駆けつけ警護」ができないということ。よって現行の解釈では国際責任が果たせない、という論法だ。



ところが、この政府の主張は、実際にシエラレオネで国連部隊を率いたことのある伊勢崎賢治氏により、「ナンセンス」と、いとも簡単に否定されてしまった。

つまり実務経験・実体験のある人間が政府の安保法制懇に居ないということの証左だ。これは防衛省背広組の幹部すら同じである。背筋がうすら寒くなる話である。

現場の実務を知らない人間が、現場の過不足を把握せずに、戦略的なレベルの思考で戦術レベルの政策を決定する。往々にしてあることだが、これが国家の方向性を決定づける重大な政策転換である限りは、これは看過できない事態である。

多国間で共同作戦を展開するPKOでこれだが、では同盟国の米国と展開する共同作戦ではどうだろう。

政府の出した「邦人救出のための米艦防護」事例

安倍首相は突如、平時に邦人(自衛官?)が乗艦する米“艦艇”が攻撃を受けた場合の邦人救出という個別具体的な事例を持ち出した。外務省はここで初めて(?)「ユニットセルフディフェンス」(独自邦訳では「単独的自衛権」)の概念を持ち出し、容認されなければ問題になるという。

しかし、そもそも共同作戦を行っているのであれば、作戦遂行上の必須事項として統一行動基準が策定・運用される筈だし、仮にそうした統一基準がなかったら米側の既存のROEが適用され、自衛隊はこれに準じる形になる筈である。

つまり、自衛隊側が米艦艇内の邦人救助を行えるか否かは、日米両軍の取極めによって定まるのであり、自衛隊側が単独的自衛権を行使できるか否かではない。また緊急時であっても、それは現場指揮官同士で対応を決めればよいことであって、国家の戦略レベルの決定が現場の戦術レベルの行動を必ずしも常に左右する訳ではない。

この「戦略的」レベルの意思決定と行動要件と、「戦術的」レベルのそれらという区別については、トルンバルもある学者の見解を引用してこう書いている。両者の区別は「単独的自衛権を戦術的レベルの権利とし、国家の自衛権を戦略レベルの権利とすることで整理できる」と。

先刻述べた国家の自衛権と単独的自衛権の独立性の問題を当てはめると、この個別具体的な事例は、単独的自衛権の問題であり、国家の自衛権の問題ではない。したがって、解釈改憲は必要ないという整理になる。

それどころか実際は、日米間の了解が事前に成立しているか否かという、それこそ「戦略」レベルの方針の話になる。緊急避難のための単独的自衛権の行使について、トップの指示があれば、日米両軍の間でそのような合意は直ちに可能であろう。

政府は顔を洗って出直すべき

この一つの事例からも、政府が求める集団的自衛権容認は、合理的必要性に駆られたものではないことがわかる。単に政治的な獲得目標として掲げているものであり、これに整合する理由を後付で展開しているだけなのである。故に、このようにボロも簡単に露見する。

首相の私的諮問機関というのは名ばかりで、首相の指令により首相が求める回答を出すための私的機関が、事実の不整合を無視してまでも出したのが、安保法制懇の答申なのである。だから、後になって次々とそのつぎはぎの、未完の、ずさんな実態が明らかになってくる。

結論としては、政府が主張する戦略と戦術レベルがないまぜになった「必要性」では、集団的自衛権容認のための解釈改憲も閣議決定も法改正も必要なく、あくまで戦術レベルの運用が可能になるよう各国・各機関との調整が必要なだけである。

第二次安倍内閣が本当に切願の集団的自衛権の容認を実現したいのならば、戦略的要件と戦術的要件を切り離した上で、あらためて戦略分野での識者と戦術分野の識者を集め、首相の意向を組み入れずに独立機関として検討を進めることだ。

つまり、顔洗って出直してこいということである。


以上、ここまでの長文の精読を感謝します。

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