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2014/07/01

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑪ #集団的自衛権 と#集団安全保障 の違いとその悪用の歴史

これまでのシリーズで何度となくこの二つの概念について整理してきたと思うのだが、もっとも基本的な区別の話をしてなかったと思うので、一から紐解いてみよう。

集団的自衛権は「権利」、集団安全保障は「体制」


まず、集団的自衛権は「権利」であり、集団安全保障は「体制」である。前者が国家固有の権利とされている一方で、後者は国家の集まりが共通の脅威に対してとり得る体制を示している。

この理解がまず必要だろう。

集団安全保障に参加する国は、自然権としての個別及びも集団的自衛権を放棄したとみなされる訳ではなく、継続して保持している。ただし、集団安保措置に参加している間は、その権利を「行使している」とはみなされない。

部隊防護原則に基づく単独的自衛の権利


一方で「共同部隊防護」(政府的には「ユニット・セルフ・ディフェンス」)の概念がある。これは国家の自衛権とは区別して個々の部隊にあると慣習国際法上認められる単独的自衛の権利。その由来は個人の自衛権(正当防衛の権利)にある。

殆どの国において個人に正当防衛の権利が許されているように、それらの国の集合体であり「国家の自衛権の行使下にない」多国籍軍の部隊の個々の構成員にその権利があると考えられる。

これは国連のPKOや多国籍軍の場合は、その統合任務部隊の交戦規則(ROE)によって規則化される。たとえばアフガンで展開されているISAFにも独自のROEがある。(詳しくは以下シリーズ③④を参照) 

つまり、集団安全保障に参加する国家の要員は、国家の自衛権を保持しつつ、これを行使することを免れる。一方で、個人及び部隊の構成員として部隊防護のために単独的自衛を行う権利と義務を有するのである。

理解していただけただろうか?

集団安全保障が与えるのは「権限」


さて、集団安保という「体制」は慣習国際法により構成される国連システムによって可能となる。これにより加盟各国には集団安保措置としての武力行使に参加する「権限」が与えられるのである。その「権限」を付与するのか、安全保障理事会だ。

集団安保の中では、その構成員は特定の体制に所属する故の特権として、集団での武力行使を認められる。つまり、「通常ならば単独では認められない権限」なのである。

ややこしくなるが、またおさらいする。

基本認識: 国家の自衛権は限定的な権利


国連憲章第51条は、自然権として国家に個別的・集団的自衛の権利があることを認めた。但し、条件付きで。それは安保理が集団安保措置を決めるまでの間ということ。つまり限定的な権利なのである。

この限定的な権利を行使することは、通常は、安保理の集団安保措置がはじめられた時点で消滅する。通常は、というのはアメリカが自らアフガン攻撃などにおいて「例外」を作っているからだ。

日本は今後、この「例外」的な事態に付き合わされる可能性がある。

「日本国憲法は、国際法上合法な武力行使である、集団安全保障措置としての軍事的強制措置への参加を認めていない」というのが、これまでの我が国の政府見解だった。新見解は、集団的自衛権に関係なく、集団安全保障措置に参加できるとするものだがその理屈は不明だ。

集団安全保障措置に参加する場合は、制裁する側になるので、連合軍の一員として攻撃を通告することはあっても、国家として宣戦布告することはない。但し、国家単独で行動してよい訳でもない。だから統合本部の指揮権に服することになり、その交戦規則に拘束される。

おわりに


かつて日本はイラクやアフガンで、この指揮権の問題を回避するためにどの派遣でも連合軍の指揮下に入らなかった。憲法上認められれないという解釈があったからだ。だから直接戦闘行為には関わらず、「後方支援」や「復興支援」のみ行ってきた。

詭弁でしかないが。

何度も書くが、イラク戦争は国連に認められた武力行使とは言い難い一方で、アフガン戦争は自衛のための戦争であり、我が国は憲法上疑義のある2つの戦争に既に「時の政府の解釈」により参戦してきているのである。(以下シリーズ⑩を参照)


これは今後、劣化する一方だろう。

どれだけ限定的に解釈・行使しようとも、既に「時の政府」による誤った判断の歴史は刻まれている。

今回の閣議決定による解釈改憲の後で、厳密に「限定的な権利の行使」など期待するべくもない。

我々平和を尊ぶ国民は、集団的自衛権容認反対を叫びつづけなければならない。

以上、長文のご精読を感謝します。

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