行政府の手続き上の暴挙は、1954年の自衛隊発足、日米安保締結に続き、その60年目にして、解釈改憲により武力行使の拡大を容認してしまったことにある。次に問題なのは、その中身である。
政府は武力行使要件を緩和することで、個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使要件をも緩和した。つまり"全般的に"国家の自衛権の行使要件が緩和されたことになる。
本来なら現行憲法に則った解釈ならば、たとえ改憲するとしても個別的自衛権の行使要件は維持しつつ、集団的自衛権の要件は独自に策定すべきだった。つまり、集団的自衛権だけの行使要件を作るべきだった。
だが、実際はどうか。
政府は、憲法が禁じる「国際紛争を解決する手段としての戦争」(=「武力行使」という政府見解)そのものを、より容易に行使可能な要件へと改変してしまったのである。
従来の自衛権行使の三要件は、急迫性、代替手段がないこと、比例した手段という、いわゆる古典的な自衛権行使の3要件(ウェブスター原則)を運用していた。新要件はこれを大きく緩和している。
政府がどのようにこれを適切な英語に訳出するのかは見ものだが、もし完璧な英語でこれを説明できるならば、そもそも三要件は米国側が提示したものだと考えれば筋が通るだろう。
法律用語の「急迫不正の侵害」(imminent and unlawful infringement)は、英語では「不正」をunlawfulとしている。つまり、国際法上の「不正」な行為であることが条件の一部を構成している。
これを新三要件の一つに当てはめると「明白な危険」(apparent danger)となる。つまり、国際法上「不正」であるかにか関わらず、国家の自由解釈でそれが「危険」であるとする合理的な理由が(「明白」で)があれば、それだけで自衛権を行使し得るのである。
これは、「危険」なのが「明白」である理由を日本政府がいくらでも主張できることを意味する。しかもそれは法に則るものではなく、主権国家がそう考えるから武力行使は可能なのだという整理になってしまう。これではまるでどこかの無法者国家rogue stateのようだ。
さて、こんな曖昧な要件一つで武力行使ができないよう、あと2つ要件が設けられている。「他に代替手段のないこと」with no alternative meansは、つまり平和的・外交的手段が尽くされていることを意味する。
現実に「明白な危険」が存在し(注:国際法上の定義ではなく)、それが目前に迫っているのであれば、「警告している間がなかった」ことを言い訳に、"疑似先制的に"武力を行使することもできてしまう。
つまりはじめの法律的に曖昧な「明白な危険」という表現により、2つめの要件は殆ど存在しないも同然になる(切迫した目前の危機以外。例:ミサイルが発射され、数分から数十秒で着弾する場合等)。
これで2つの要件が潰れる。
最後の「比例した手段」proportional meansは、武力を行使する時に手段の大小の問題であって、既に武力行使は「できる」状態にあることが前提にある。なので、武器の使用(量)や、武器の種類(質)をいくら調整しようと、武力が行使されることには変わりない。
我が国が援用してきたウェブスター原則ですら、比例の原則は戦火拡大を抑制し得るものではない。使用兵器の強力化がなくても、現代の兵器の応酬は双方に十分な被害を生じ得るからだ。これは新三要件で「必要最低限」としようと同じことである。
「必要最低限」だか実際はそれなりの破壊力のある手段を、政府が恣意的に解釈できる「明白な危険」「代替的手段の不在」と合わせてしまえば、結果的に政府は自己裁量で自由に、強力な兵器で武力行使できてしまうことを意味するのだ。
以下、例を挙げてみよう。
近年の例でいえば、個別的自衛権の行使に基づく米国の対アフガニスタン武力行使が筆頭に挙げられる。
米本土内の商業ビルと政府の国防総省への民間航空機を利用した”テロ攻撃に対し、米国は海上・上空からトマホーク(大型巡航ミサイル)やデイジーカッター(燃料気化爆弾)でアフガニスタン本土を空爆してタリバン政権を崩壊させた。
およそ「比例的な手段」とはいえない代物である。
日本が米国と歩を揃えて対テロ戦に望めば、米国の庇護のもと同じことが起こり得るのである。
原則から離れ国家の自己解釈に委ねるということは、かくもリスクの高い所業なのである。
これら3要件に加えて自衛権の運用を厳格化するには、要件適合の厳格な基準を設けるしかない。つまり、「明白な危険」の定義。「明白」の定義。「危険」の定義を法律で成文化することである。
与党公明党は、党内で受け入れられる表現として「明白な危険」を選んだが、それが単に言葉のニュアンスによるものか、明確な定義あってのことかは不明だ。だが、必要なのはそうした恣意的な解釈の幅を狭める厳格化なのである。
だが、今後より円滑に米国の軍事行動に参加したい日本側にとって、あるいは参加してほしい米側にとって果たして、要件の定義の厳格化は望ましいことだろうか。
おそらく、どちらも望まないだろう。
とくに米側が「望まない」のであれば、日本側には「望む」余地がない。したがって、今後の安保法制の整備の段階で、要件定義の厳格化が行われる可能性は低いと思ったほうがいいだろう。 これが、解釈改憲と同等あるいはそれ以上に危険な中身の問題である。
私たちは想像以上に、”寒い時代”を目前にしているのである。
以上、長文のご精読を感謝します。
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