2014/6/22のインタビュー記事で民主党の岡田克也最高顧問が語った内容は、政府の些末な議論の中で失われ、忘れ去られようとしている解釈改憲問題の本質を突いている。それは、新解釈により平和憲法の基本原則が損なわれているということだ。つまり、政府は解釈改憲の域を超えた新解釈を認めさせようとしている。
「個別的自衛権は日本自身が侵略を受けた、攻撃を受けたというときに反撃する権利ですね。集団的自衛権が認められるとしたら、それに匹敵するような事態であることが、憲法が許容する大前提」岡田克也民主党最高顧問https://www.facebook.com/GivingTreeIntnl/posts/10152623179292089
基本認識:自衛隊や日米安保は違憲ではない
自衛隊の発足と日米安保の締結後、歴代政府は①自衛隊が憲法が禁止する「戦力」ではないこと、そして②日米安保が双務的ではなく、かつ、憲法が禁止する集団的自衛の権利を認めるものではないことを政府見解として維持してきた。
自衛隊と安保の存在自体を違憲とする考えもあるが、個別的自衛権は国家固有の権利であるだけでなく、国際法上、主権国家としての要件を備えるために履行が必要な義務でもある。即ち、領土・国民・機能する政府の三要件である。
「機能する政府」とは、領土と国民を保護する機能を有する政体を意味する。即ち、主権国家は何らかの手段で領土と国民を守れなければらない。我が国は、専守防衛に基づく国防に必要な最低限の実力組織として自衛隊を保有し、これを補完する勢力として在日米軍を擁している。
日米安保は、我が国の国防力を補完及び監視するために、旧連合国である米国が我が国と締結した片務的な安全保障条約である。米軍側に我が国を守る一方的な役割が課せられるため、その代価として我が国は在日米軍の駐留費の大半を負担するなどして、米国に格別な配慮を行ってきた。
違憲性が疑われる現在の自衛隊の活動
日米安保や自衛隊の位置付けは、国際情勢と米国の世界戦略の変遷の中で同様に変わってきた。50年に勃発した朝鮮戦争では、自衛隊の前身である保安隊が掃海作業のため極秘裏に派遣され死傷者まで出して戦線に貢献した。冷戦終結後、自衛隊の役割をさらに変容した。
01年の対米同時多発テロにより、自衛隊は「対テロ戦争」という非対称的な、新たな形の世界規模の戦争に巻き込まれていくことになった。91年の湾岸戦争には自衛隊派兵禁止の原則を固持し経済支援に終始したが、これを国際的に非難された結果、対テロ戦争では軍事的貢献も行うようになった。
これに先立ち92年にはPKO協力法が成立し自衛隊の本来任務に国防・災害救援に加えて国際平和協力が盛り込まれていた。政府はこのPKOに限定されている筈の国際平和協力任務の解釈を徐々に拡大し、特措法により安保理決議に基づく集団安全保障措置に参加するようになった。
対テロ戦争の口火を切った01年のアフガン戦争で我が国は、直接の戦闘行為に加担する派兵は行わないものの、インド洋で個別手自衛権の行使の下に展開される米英の軍事作戦「不朽の自由作戦」の“後方支援”を行うことで、事実上、軍事兵站支援を通じて自衛戦争に加担した。
政府はインド洋の給油支援は「非戦闘地域」で行われているものであり、また国連に“容認”された活動であることから、憲法が禁じる「武力行使との一体化」はないとして正当化した。そして03年にはイラク戦争後、同様の論理で初めて紛争地域に自衛隊を派遣した。
このように、自衛隊の本来任務は国防・災害救援・国際平和協力の筈なのに、憲法上疑義のある国際活動に政府は次々と特措法を制定して参加するようになり、本来の任務と自衛隊が行う活動の間が乖離するようなってきたのである。
その間、日米安保は、北朝鮮によるミサイル演習への共同対処(09年)や、東日本大震災における米軍の災害救援活動等(11年)の形で有意に機能するものとして現れたが、一方で自衛隊が果たす役割と機能は、米国の世界戦略の中で激しく変容していった。
現時点で既に、自衛隊の活動は数々の特措法により、現行法体系が定める以上の範囲に拡がっている。
たとえば09年には初めて、恒久法としての海賊対処法により、ソマリア沖海賊対処のために海上自衛隊の護衛艦が派遣され、各国部隊との連携を深め、11年にはその活動拠点として初めてジプチに独自の基地を建設するに至った。
海自の派遣と基地建設は全て、国連安保理決議に基づくものだが、本来自衛隊が憲法上許されている行為を逸脱しているという議論は、国会内では経済的・人道的利益優先のためという否定しがたい理由により封殺された。
09年の政権交代後、インド洋の給油支援は、武力行使との一体化の懸念のためその効力を停止されたが、09年政権交代直前に自公政権により制定された海賊対処法は依然有効なまま現在に至る。
このように、自衛隊や日米安保そのものは違憲でなくても、その運用が違憲である可能性のある状態が続いているのである。現在の解釈改憲論議は、その流れの中で起きている暴挙なのであることを認識する必要がある。
変化を追認・拡大する暴挙を止められるのは司法のみか
自衛隊の機能と役割が既に憲法を逸脱して変容する中で、追認的にこれをより一層拡大しようとするのが、現在の議論である。つまり国防等の本来任務のみならず、自衛隊の役割を超えた範囲で武力行使を認めさせようとする議論なのである。
現在の議論は、解釈改憲の域を離れ、国際紛争解決のための武力行使を禁じ、唯一国防のためのみに自衛権の行使を認める憲法の原則を侵している。この重大な侵害行為を、時の政府に任ぜられた内閣法制局のトップは合憲であるとして追認している――立憲主義の崩壊である。
内閣法制局容認の閣議決定では、法制化の審議の過程で違憲立法審査権を持つ最高裁は介入できない。審査権は法案ではなく、成立・施行後の法律に対して行われるものだから、事実上司法の歯止めは機能しない。閣議決定による解釈改憲は、立憲主義の弱点を突いた暴挙なのである。
「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人の一人である加藤朗教授が、「集団的自衛権容認反対派は敗北した」と最新のブログで漏らしていた。政府の個別具体的な事例を個別具体的に各個撃破できなかったから、結果的に政府を利することになり、統一を欠いた国民的な反対運動は挫折に終わるという。
しかし、内閣法制局は内閣内のチェック機能であり、最終的な違憲審査権は独立した司法の最高裁にある。
最高裁の改選人事については、先の総選挙で有権者である私たち国民が介入している。しかし、有権者は果たして賢明な選択を行ったのであろうか。
次期国会で、恐らく改造内閣により関連閣法が全て国会を通過したとき、あらためて、私たち有権者の判断が賢明であったか否かが形となって現れる。
それまでに何ができることはあるのか、私は最後まで考え続けたいと思う。
長文のご精読をありがとうございました。