集団的自衛権について、民間安保法制懇メンバーで東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏がツイッターで呟いていた以下の内容に私が反応したことから、同氏と直接話し得られた新たな洞察と、それを採り入れた現在の集団自衛権論の考察の連投ツイートを以下にまとめる。(※一部転載に合わせて修正)
日本が2003年当時アフガニスタンで丸腰で臨んだ「武装解除」は、集団的自衛権の行使だったんだよ。
《私》
伊勢崎さん、これって。「日本の」集団的自衛権の行使だと思われてしまいますよ。正確には米英の個別的自衛権に呼応してNATO他協力国が大西洋憲章第五条に基づいて行使したのが集団的自衛権ですよね。DDRはSSRの一環でしょ?
― 伊勢崎さんとメッセンジャーで直接このことについて意図を確認 ―
集団的自衛権について伊勢崎賢治氏に昨夜確認したことについて、昨夜DMで伊勢崎氏と議論し、集団的自衛権の実務上の運用について、新たな洞察を得たので皆さんとも共有したい。
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第一部 議論の背景と現在の議論
Ⅰ.集団的自衛権を巡るこれまでの議論のおさらい
伊勢崎氏によると、アフガニスタン戦争終結後に日本がG8の共同施策の一環として実施した「丸腰の武装解除」(DDR)は、現在米陸軍海兵隊が運用するテロ対策ドクトリンCOIN(Counter Insurgency Operation)の重点項目となっているという。つまり、戦闘終結後国連決議によって発足した国際治安支援部隊ISAFのドクトリンだ。
国際治安支援部ISAFへの参加を巡っては、当時の小沢一郎民主党代表が雑誌「世界」に掲載した論文を巡り物議を醸した。
小沢代表は、国連決議にオーソライズ(承認)された活動であれば、自衛隊は参加できるという立場を示した。
これは共産・社民を始めとする野党はもとより自民党からも反発を得た。(関連記事)
その自民党が今度は、そうしたISAFのような多国籍軍に合憲的に参加する解釈改憲を目指しているのだが、それ自体が、当時民主党を始めとるする野党に批判されながらも、イラク戦争にも加担することになるインド洋での給油支援を実施してきた歴代自公政権の政策が違憲行為だったことの証左である。
自公政権は、集団的自衛権に基づく武力行使と一体化しているOEFへの給油支援を行いながらも、ISAFに参加することは違憲として踏み込まなかった。
だが、国連授権のISAFは、集団的自衛権ではなく、集団安全保障措置として成立していた。
つまり、OEF支援こそが違憲行為だったのである。
当時の自公政権は、ISAF発足後の安保理決議の前文でOEF やこれを支援する各国への「謝意」が記載されたことを根拠に、OEF支援は国連授権の活動であると強弁した。はて、ならばISAF参加も合憲ではないか。(関連記事)
このように、自公政権は自ら論理矛盾を抱えたまま強弁し、後方支援を続けた。
Ⅱ.国連憲章が禁止する「自衛戦争」と国連が認める「集団安全保障措置」
国連憲章は、国家の自然権としての個別的及び集団的自衛権を認めつつ、これを行使するには国連への報告義務があることを明記している。そして自衛の名の下の侵略戦争を否定しこれを非合法化している。その上で、唯一正当な国際紛争の解決手段として、集団安全保障措置を認めているのである。
アフガン戦争は、米英による個別的及び集団的自衛権の行使とともに始まり、これにNATOによる集団的自衛権の発動が加わり、戦闘が終結するまで、自衛のための戦争として継続された。その後、戦後の治安維持活動の一環として初めて、国連により集団安全保障措置が認められ、ISAFが設置された。
長い前置きになったが、この合憲な活動のISAF に参加するNATO米軍が運用しているのが、武力行使を伴わない人身掌握戦略ドクトリンとしてのCOINなのである。これまでの背景を理解した上で、これが現代において何を意味するかを考察したい。
現在の集団的自衛権の議論に欠けている視点だ。
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第二部 これまでの運用と現在の議論の問題
Ⅲ.これまでの憲法解釈での運用と現在の解釈改憲議論の問題
さて、集団的自衛権を巡る議論では、その行使が憲法に定める「国権としての交戦権の放棄」の規定に反するとして、これまで「慎重な運用」がなされてきたことになっている。
現在与党間で行われている議論に照らせば、先のアフガン戦争でのOEF支援についても、インド洋沖は「非戦闘地域」だから、(集団的自衛権に当たるOEFを後方支援する活動であっても)給油支援自体は集団的自衛権に当たらないというのが政府が運用してきた解釈であった。
つまり、現在行われている解釈改憲の議論は過去の政府解釈の追認及び強化のための議論である。
民主党が政権党となり2009年からこの「憲法上疑義のある」活動は停止されたが、その前段として民主党は野党時代から、給油支援が「武力行使と一体化する活動」である可能性を問題視し、独自の調査によりその高い蓋然性を示す数々の証拠を国会に提示し、追及した。
その時に自公政権側の主な答弁の内容が、今朝連投ツイートしたように、「国連で謝意を示されている必要な活動」だから、或いは「非戦闘地域」だから、というお粗末なものだった。
自公政権は、憲法上・現行法制上の疑義よりも、「国際社会に必要とされているか否か」を論点として、「武力行使との一体化」という本質的な疑義への回答を忌避したのである。現在行われている議論は、こうした追及や批判を回避する為のものなのである。
自公政権は第二次安倍内閣になって初めてこの「武力行使との一体化」を焦点に集団的自衛権の行使が容認される要件の整理に着手した。しかし一方で、過去の政府の判断が「当時」の政府解釈で容認され得るものだったのかという検証はなされていない。
つまり政府与党は、過去の検証のないまま、非現実的なシナリオを元に「現在」の新解釈で要件を整理しているのである。現在の与党間の集団的自衛権に関する「詰め」の協議がどれだけちぐはぐなものかが窺い知れるだろう。
それを一部の大手メディアは、さもまっとうな議論が行われているかのように報じ、焦点は慎重な公明党が急進的な自民党側の提案を受け入れるか否かにあるかのように印象付けている。
実際は全く違う。
Ⅳ.現在の解釈改憲議論でなされるべきこと
「集団的自衛権があれば~ができる」ではなく、「行使が必要とされ得る事態」を洗い出しそれに対する過去の政府の行動をあてはめ、何が不足していたかフィット&ギャップ解析をすべきなのである。 こうした論理的な思考プロセスが現在の「詰め」の議論に全く欠けていることを国民は畏怖すべきだろう。
平和国家のありようを変える重大な議論が、本質をすっ飛ばして技術論に終始しているのである。いわんや、国会はこれをほぼ傍観しているのだから、三権分立のもと行政を制御すべき立法の機能も、この重大な局面において機能しているとは到底いえない。
では、話を元(COIN)に戻そう。
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第三部 軍事パラダイムの転換を認識できない現在の議論の有意性
Ⅴ.米軍の対反乱ドクトリン「COIN」の転換
伊勢崎賢治氏が米軍のテロ等の対反乱ドクトリン「COIN」を持ち出して指摘しているのは、従来の解釈で自衛権を行使してきた米軍自体にパラダイム転換が起きていることだ。これを防衛省をはじめとする日本の安保コミュニティは全く認識していない。
米軍が長年の対テロ戦により得た教訓は、「非対称的な紛争において完全な軍事的勝利はあり得ない」ということであり、「非軍事的な対応も自衛権行使の手段として成立する」というものだ。
アフガンで国際治安支援部隊ISAFが一部で実践した非武装のいわゆる人心掌握(hearts and minds)作戦は、このパラダイム転換をもたらすだけの実効的な成果を収めたのである(因みにかつて民主小沢代表がISAF支援としたのは、これを含む民生部門支援のための自衛隊派遣)。
最新軍事ドクトリンのCOINに併せてそこで想起されるのが、同じく日本により非武装で、治安部門改革SSRプログラムの一環として行われた武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)である。(参考)
奇しくもこの活動を日本政府の特命大使として統括した伊勢崎氏は、現在の米軍事パラダイムを“遡及的に”DDRに当てはめれば、非武装な活動も十分、集団的自衛権の行使に当たるというのだ。いってみれば、日本はずっと集団的自衛権行使の禁忌を破ってきたことを認めることになる。
Ⅵ.敢えてタブー破り集団的自衛権の行使を容認すると、どうなるか
伊勢崎氏らしい、タブーを恐れない“暴論”といえるだろう。だが、この“暴論”からは実は興味深い推論を導くことができる。それは、現行の整備や法制化でも、自衛隊は十分に「非武装で」集団的自衛権を行使できるのではないか、ということだ。
つまり、仮に集団的自衛権の行使が容認されたとしても、その条件は、「非武装で行われる活動に限定する」ということだ。これこそ、平和憲法下で合憲かつ合法的に自衛隊に認められる活動ではないだろうか。仮にそれが、同盟国の個別的自衛権に呼応しこれを支援するための「戦争協力」であってもだ。
この考え方で推し進めると、現在議論されている集団的自衛権行使のための「手段」則ち軍備の拡大・拡張や多種多様な状況の想定は全く不要ということになる。
米軍もCOIN下で完全に非武装という訳ではなく、最小限の武装・警護を伴う。その程度の武装ならば、現在のPKO法の枠内の運用でも十分可能だ。さらに米軍が運用する交戦規定も、PKOのそれとさほど変わらない。つまり自衛隊法等の改正も必要なくなる。
「撃たれるまで、或いは急迫不正の侵害がないかぎり、撃たない。」
正当防衛としての自衛権行使に係わる伝統的な正当化要件である。これは実際に、アフガンやその他の地域に展開するOEFの部隊の交戦規定としても運用された。
- ソマリア支援作戦統合任務部隊(JTF)地上部隊交戦規則(仮訳)本規則のいかなる規定も、隊員及び所属部隊を防衛するために適切と思われ行動を妨げるものではない。A.隊員には、攻撃あるいは攻撃の脅威に対し武力をもってこれを防衛する権利がある。B.敵性行為を制止する目的での敵性攻撃に対する効果的かつ迅速な応戦は許可されている。C.米軍が非武装の敵性勢力、群衆又は暴徒(あるいはその両方)によって攻撃された場合、米軍は当該状況下で許される最低限度の、かつ、脅威に比例する武力を使用することができる。D.隊員は、任務遂行の目的で他者の資産を押収してはならない。E.文民の拘束は、安全治安上の理由若しくは自衛上の理由に基づくものであれば許可される。留意事項1.合衆国は交戦状態にない。2.あらゆる個人の尊厳を尊重すること。3.任務遂行は最低限度の武力によって行うこと。4.自衛のための行為には常に備えておくこと。統合任務部隊SJA SER 312 1992年12月策定
(参考) 実際にソマリア作戦で米軍が運用した交戦規定「ソマリア支援作戦統合任務部隊(JTF)地上部隊交戦規則」(上記)を含むまとめ
つまり、自衛権行使の為に国防を強化するという現在の「国防安保セット論法」が通じなくなるのである。交戦規定の変更も、勿論必要ない。したがって武器使用基準の変更も必要ない。使用武器の強化も必要ない。(推進派にとっては)全く困ったパラダイム転換である。
Ⅶ.「丸腰の集団的自衛権行使」を認めることのリスクと回避策
但し、リスクも伴う。
それは、集団的自衛権の行使を結果的に合憲と認めることにほかならない。原則認めてしまえば、あとは時の権力の解釈と運用で変容してしまう危険性を孕む。これは、いま現実に解釈改憲で直面している問題だ。
また本質から離れて、逆に非武装による集団的自衛が「主」ではなく「従」の関係となり、非武装活動が武装活動=武力行使の“付録”となってしまう危険性がある(実際、それがOEFでの運用だった)だから、やはり集団的自衛権は一切認めないとしなければならない、となるかもしれない。
一方で、初めから原則として非武装な活動に限定していれば、その後に武装活動=武力行使を解釈で追加できなくすることも可能だろう。いってみれば「硬性解釈改憲」である。
結論:軍事パラダイムの転換を認識できない現在の議論に有意性はない
最終的には、容認反対派にとっては、この新パラダイムに基づき集団的自衛権の行使を「部分的容認」するか、依然として「全面否定するか」という二択になる。3つめの選択肢「全面容認する」は、これは反対派としてはあり得ない選択だろう。
一方で容認賛成派にとっては、「全面容認」するか「部分的容認」するかに絞られ、「全面否定」は、賛成派としてはあり得ない選択となる。
このように、「非武装の集団的自衛権行使」という最新の軍事ドクトリンに基づき議論が与党間で行われるのであれば、“まだ”議論を支持する余地はあるのだが、実際はこれに程遠い。
だから、米軍のパラダイム転換があったとしても、これを意識・認識しない現政府及び与野党では、最新の知見に基づく集団的自衛権に関する実効的な議論は期待できないだろう。
故に、現在の枝葉末節な議論では集団的自衛権の容認は、全面的であれ部分的であれ、「権利ありき」の発想では全く容認できないというのが、私の個人的見解及び立場の整理となる。
以上、ここまでの長文の精読を感謝します。
最後に、伊勢崎氏の最新の見解
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