総論としての「単独的自衛権」についてはこれまでの2つのまとめ(③と④)で語り尽くしたと思うが、政府が個別事例として挙げ、とくに最近の「詰め」の議論になって持ち出した各論としての「共同部隊防護」(日経用語だがそのまま使わせてもらう)についても私見を述べたい。
「平時における弾道ミサイル発射警戒中の米艦防護は、政府が自衛隊法を改正して対応する必要があると説明した。共同で任務を遂行している他国の艦船を「1つの部隊」とみなし、互いに攻撃から守る共同部隊防護(ユニット・セルフ・ディフェンス)の考え方も説明。」http://www.asyura2.com/14/senkyo166/msg/468.html
最近の報道で外務省が使ったとされる「ユニット・セルフ・ディフェンス」という用語だが、日経はこれを「共同部隊防護」と訳している。この言葉の由来及び防衛省での運用については以前ツイートしたのだが、このforce protectionをどこで運用するかがこの個別的事例の焦点だろう。
政府の事例では、「平時の共同任務中に米艦艇が攻撃を受けた場合」が、この共同部隊防護の事例なのだそうだ。さて、これは「集団的自衛権」の問題なのだろうか。それとも先に説明した「単独的自衛権」の問題なのだろうか。
結論からいえば政府の個別具体的な事例は単一の部隊(艦隊)に対する攻撃を意味するため、単独的自衛権の対象となると思われる。要はこれは火力の問題と、個人の自衛権とは区別されるという点が問題なのではないだろうか。
近年の米艦艇への直接的な攻撃事例:駆逐艦コール襲撃
米艦艇への「直接的な」攻撃といえば、真っ先に浮かぶのが2000年に発生した米駆逐艦コールへのテロ攻撃事例だ。米艦艇が国家ではない非対称的な「敵対勢力」の標的となり、攻撃を受け、実害を被った。
この駆逐艦コールの事例で、海自の艦艇が共同作戦中(後方支援)で同海域に展開していたとして、海自にできることは何だろうか。「盾」になることではないだろうか。あるいは、真っ先に「救援する」ことではないだろうか。 それ以上の支援を、米側は必要とするだろうか?自艦で撃退或いは報復できるのではないだろうか。記録では「17名の水兵が死亡し、39名が爆風で負傷した」とあるが、この場合に報復攻撃を行うのは米艦隊側の務めではないのだろうか。
礒崎陽輔国家安全保障担当補佐官は、政府は最終的にこれら個別具体的な事例を取り下げ、集団的自衛権のみの容認を求めることを決定したとツイートしている。つまり各論では説得できないが総論でならOKがとれるだろうという見切りだ。
だが各論(即ち運用)の面で必要性が認められないのならば、総論で認められる合理性はないと思うのだが違うのだろうか。これまで主張していた各論的内容を、その合理性に関係なく取り下げるというのだから、それでも総論は認めてほしいとはムシがよすぎないか。
政府の政策決定を行う場で、この程度の駆け引きで合理性が吹き飛ぶならば、そのような政府に難しい判断が求められる安全保障など信任できる筈もない。
フィクションにおける単独的自衛権行使の事例
単独的自衛の権利は、国家の自衛の権利とはかかわりなく個人が等しく保有する個別自衛権の延長として広く国際社会に認められている。ならば後は、その権利を行使する対象及びその受益者にどう受け取られるかではないのだろうか。
例えば、コール事例のような非対称的な攻撃ではなく、対称的な国家による攻撃が米艦艇に向けてなされるとする。これに対し、共同任務中の自衛艦が、警告を発し威嚇射撃を行えないということは、現行解釈により確定するのだろうか。
フィクションだがこれに似たケースが日米間で起きた描写の漫画があった。かわぐちかいじ作の『沈黙の艦隊』では、日米で共同で極秘開発した米艦隊所属の戦略原潜が反乱逃亡したことを受けて、米艦隊司令部は撃沈を決定。 日本政府は拿捕を目指して単独行動に出る。
自衛艦隊側はあくまで専守防衛に徹し、自らの目的を妨げる米艦隊を攻撃しようとはしない。だが米艦隊は容赦なく自衛艦を攻撃する。多くの人が死に、多くの艦艇が失われる。艦隊戦において「撃たれるまで撃たない」のは現実的ではない。
だが現場指揮官レベルでは、艦隊防護よりも専守防衛という国家の方針を貫くことが重要だと、「単独的自衛権」の権利は行使されなかった。これがなぜ通常の個人のいる部隊では適用されないか。火力の違いである。
一般的な解釈として自衛権は、所謂ウェブスター原則に基づき「即座に、圧倒的で、手段選択の余地も、協議する間もない」場合に、攻撃に比例した反撃のみを許されるとされる。だから艦砲射撃には艦砲射撃で、ミサイル攻撃にはミサイル攻撃で、が妥当とされる。
しかし艦艇に搭載する兵器と、歩兵部隊が装備する武器とでは、基本的に火力が違う。したがって、相手に与える損害も比例して大きくなり、それが過度であれば正当な自衛権の行使とはいえなくなる。
だから艦艇などの大型兵器の運用では、個人の自衛の権利よりもより慎重な現場判断が求められる。 『沈黙の艦隊』では、自衛艦隊の沼田司令官は、慎重な判断の末、専守防衛に徹して最低限の応戦しか行わないことを選択する。
これは艦隊司令官としての現場指揮官の判断である。つまり、単独的自衛権の行使を最小限に抑えたといえるだろう。だがそれが部隊防護の観点でいって妥当なものなのかは判断が難しい。結果として大きな損害を出しているからだ。
では、この仮想の艦隊司令には現行法体系でどのような選択肢が残されていたのだろうか。それこそ「単独的自衛権」を全面的に行使することは可能だっただろう。そのことにより部隊防護を優先し、やむなくば米艦艇の撃沈も選ぶ。
積極的に反撃に転じれば 損害はたしかに少なく済んだかもしれない。一方で、反撃すれば戦線は拡大し、日本は中立な姿勢ではないとみなされ、二国間の衝突は本格的な戦争へとエスカレートしていっただろう。
トランブルが述べるように、世界のROEで「単独的自衛権」が認められているのならば、日米で共同任務展開する自衛艦やその艦隊にもこの権利は認められて然りだろう。だがこの話では日本は単独であり、かつ最高指揮官である総理大臣からの命令で戦線の拡大を避けることが国是とされていた(すなわち「専守防衛に徹せよ」)。
総理大臣命令に従うことは、つまり部隊防護を放棄するも同然である。最低限の自衛はできても、積極的自衛はできない。つまり、危険を排する行為には及ぶことができないで攻撃を待って初めて反撃できることになる。被害が増えるのも当然だ。
トランブルが述べたように現場指揮にも様々なレベルがあり、このように艦隊司令のレベルになれば、より多くの人命と財産がリスクにさらされることになる。が、政治的判断が優先され、権利が必ずしも行使されないパターンもあるのだ。
沼田指令の判断は、多くの部下の命を失う結果にはなるが、日米開戦を避けることはできる。より大規模な戦争、人命の損失を避けるために、信義に徹することを選択した沼田指令。米軍との共同作戦をとれば、このような実例はきっと増えていくのだろう。
政府の拙速な議論に合理性はない
このような多大なリスクを背負ってまで、“米国側の要請”に応えて、米軍の作戦に加担し米軍を守るために集団的自衛権が必要だと自ら納得しなければいけないのだろうか。それは、来るべき周辺有事に備えてなんとしても米国の抑止力がいかんなく発揮できるよう体制を整えるためだろうか。
周辺有事に備えるくらいならば、周辺有事が起きないよう努力してはどうだろうか。それとも、どうしても相応の抑止力がないと、周辺有事の勃発を防げないとでもいうのだろうか。そこまで事態は緊迫しているのだろうか。それとも緊迫させたいのだろうか。
政府が非現実的な事例を盾に、与党協議の足並みが揃わないうちにに閣議決定まで行うほど急いでいることの合理的理由は見当たらない。ただ単に、米国のアジェンダに合わせているだけのようである。そこまで「お付き合い」しなければならない状況なのだろうか。
「何」を人質にそこまでの要求を呑めと言われているのか、それとも実際は内閣、いや総理の独断なんだろうか。いずれにせよ、部隊防護についても各国間で調整すればよいことと、単独的自衛権を強化することしか、私には合理的な方策は見いだせない。
以上、ここまでの長文の精読を感謝します。
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