文民を保護する国際責任に関する議論の欠如
伊勢崎氏が、集団的自衛権の議論について指摘した文民保護の問題。
国際人道法=戦時国際法の法体系そのものが文民保護に主眼を置き、また近年はリビア問題等において再び文民保護事由による人道的干渉がクローズアップされている中で、集団的自衛の現場を想定した議論でこのことが全く言及されないのは不可解である。
個別的であろうと集団的であろうと、武力行使を伴う自衛行動は、国際人道法に拘束される。
自衛隊の場合は、2006年にジュネーブ諸条約追加議定書に批准しこれに違反した場合は2007年に加盟した国際刑事裁判所の管轄に服すことになる。
ところが現行の法体系では、自衛官は刑法により裁かれるため、国内司法が裁判管轄権を行使するためには、国際刑事裁判所の管轄犯罪を国内法制化しなければらない。これが実は未だなされていない。
つまり、集団的自衛の名の下に武力行使を行った際に文民に被害が生じ、それが故意或いは命令によるもの(米軍と一体化した作戦行動等)であった場合、米軍兵士なら軍法会議にかけられるところ、自衛官は未完成な法体系でこれを裁かなければならないのだ。
ところが法務省はこうした可能性について、「論理的可能性としてもあり得ない」として、自衛官による犯罪が起きる蓋然性を完全に否定し、これを根拠に現行の刑法体系で裁けるので国内法制化は不要としたのだ。
結果、2007年の加入から7年後の現在も、自衛官が国際人道法を犯した場合は、「戦争犯罪」も「人道に対する罪」も「集団殺害罪」(ジェノサイド)も規定されていない国内刑法で裁くことになる。
まず、これが一点。
先刻の話は、文民保護がなされなかった場合の「対処」や将来の「予防」に関する法体系の問題だった。次に指摘されるのが、こうした文民保護違反行為を未然に防ぐ、つまり「対応」する責任の問題だ。
「自国民の保護という国家の基本的な義務を果たす能力のない、あるいは果たす意志のない国家に対し、国際社会全体が当該国家の保護を受けるはずの人々について「保護する責任」を負う」という考え方がある。
2000年の国連世界サミットで採択され、その後、国連の安保理決議でも追認された「保護する責任」の概念だ。最新の事例では、2012年3月に安保理で採択されたリビアに対する武力行使容認決議が記憶に新しい。
この決議で国際社会は史上初めて、「保護する責任」に基づく人道的干渉を容認した。即ち、NATOによるコソボ空爆以来、その正当性を疑問視されてきたいわゆる「人道的介入」を初めて、新たな国際規範に基づき正当であると国際社会が認めた事例となった。
この「保護する責任」概念の適用は、国連安保理決議に基づく合議の制裁措置なので、集団的自衛権の行使ではなく、集団安全保障措置と捉えられる。しかし、当の制裁を科される国家は主権を放棄したわけではないので、当然交戦できる。ここに集団安全保障措置により生じる国際紛争という構図が成立する。
国際紛争であるからには、そこに戦時国際法が適用される(実際は国内紛争にも適用される)。つまり国連により武力行使を限定的に認められた国連加盟各国は全て、国際人道法に服すことになる。これは、集団的自衛権の行使の場合でも同じである。
アフガニスタン攻撃は、米英両国による個別的・集団的自衛権の行使により始まった。両国はこのことを国連憲章に従って安保理に報告し、個別的・集団的自衛権の行使であることを明示した。その後、アフガニスタンで起きた国際人道法違反行為について、米英両国は国際非難の対象となった。
残念ながら、今日に至るまで米英及びNATO諸国のどれも国際刑事裁判所に裁かれる事態にはなっていないが、国際非難の的となったのは事実である。また、戦時捕虜の扱いについては米国では最高裁判断に至るまでの事件となり、当時のブッシュ政権は合衆国憲法への違反を問われた。
つまり、集団的自衛権を行使できるようになるということは、相応の国際的な責任を問われ、これを履行し、犯罪行為を裁き、文民を保護する体制の整備が求められることを意味するのである。それが「普通の国」の成り立ちだからである。
現在行われている議論は、どういった限定的な場面で自衛権の行使が容認されるべきかという技術論に過ぎない。
即ち、「容認」ありきで、あとは個別具体的にどう制限するかという話に移行している。
その肝心の前段の、国家による濫用を防ぐ保護措置や、基本理念、原則などに関する議論がなされないまま、「運用」段階の議論が行われているのである。およそ、国民的議論を経たものではない。
「普通の国」になることの責任も、覚悟も、その責任を果たすための具体的な枠組みも、体系も示されることなく、ただ「権利」を行使できる条件についてのみ議論されている現状を、空恐ろしく思う。
国民皆がそう思い、もっと声を挙げるべきだろう。
このままではこの国はまた、方向を見誤る――と。
「支え合う安全保障」という第三の選択肢
私は、我が国が自ら尊んできた憲法を有名無実化するような権利を回復することには反対だ。立憲主義尊重を謳いながら「解釈改憲ありき」という現政権の欺瞞的な姿勢には正直、反吐が出る思いがする。
だが、一方で「安全保障基本法」のようなものを制定して改めて、特措法ではなく恒久法で、国家に何ができて何ができないかを規定し、その中にあらかじめ制限を規定された集団的自衛権の行使を盛り込むという、実践的なアプローチには賛成だ。また「権利」だけでなく、「義務」も盛り込みたいと思う。
先にも示したように、「普通の国」=「先進的な国」であるには、日本には乗り越えなければならないハードルがまだ沢山ある。そのどれもが、解釈改憲や閣議決定で時の政権が決めてよいものではない。
だが、国連システムというものが機能不全であることは、これまで何度も示されてきた事実なのだから、国連システム=集団安全保障に頼らない、代替的な安全保障手段が模索されなければらないというのは、これは国際社会の現実的課題だと思う。
しかし同時に私は、アフガニスタンやイラクで起きたような、単なる有志国による集団で、無法状態の中で事態に強硬に対処するやり方は、もう二度とあってはならないと思う。また、国連は、そうした有志国による対処を追認するだけの機関であってはならないと思う。
つまり、現行の国連の集団安全保障システムでは機能不全だし、有志国による集団的自衛権の行使は無秩序すぎると思う(たとえ指揮権が統一されるなどの一定の内部秩序があったとしても)。だから、第三の安全保障の形が模索されるべきだと思う。
そしてこれを先導できる立場にいるのが、我が国日本だと思う。
我が国がやろうと思えば、安全保障基本法をベースに地域安全保障機構の創設を世界に提案することも可能だと思う。まずはその地域の中で、共有された安全保障(Shared Security)を実践するべきで、そのベースを我が国の平和憲法の理念にすべきではないだろうか。
共有された安全保障、別名「支え合う安全保障」は、従来のように武力攻撃のような武力自体に対処するためのみを想定せず、大規模自然災害や、人道危機事態などの事態に対して、「責任を分散共有して互いの安全を保障し合おうと」いう考え方だ。
10年以上に及んだ「自衛戦争」であるアフガン戦争が、米軍の完全撤退によりついに終結しようとしている今、「集団的自衛」による紛争解決手法や、国連の「集団安全保障」システムがいかに欠陥に満ちているかを見直す時期ではないだろうか。
そう考えが及べば、いまさら集団的自衛の必要性を強弁する時代錯誤な政府に翻弄されることもなかったはずだ。世界が70年先を行っているのに、我が国はやっとそのスタート地点に敢えて着こうとしている。これは発電手段でいえば、太陽光発電を導入する資金も余地もあるのにまず火力発電所を設置するようなものだ。
なぜ敢えて「集団的自衛」という使い古された概念を運用し実用化しなければらないのか。ただ単に、周辺有事に対処するため?世界各国に散らばった邦人や資産を有事に保護するため?たった、それだけのために、国家として掲げてきた理念を放棄して、言葉遊びで自分と世界を誤魔化して、そして70年前の「普通の国」になろうとするのか。なぜ?
どうせなるなら、70年後の今の「普通の国」にならないか。集団的自衛権を行使する自衛のための戦争など、アフガン以降はアフリカの一部の国を除いて、ほとんど起きていない。そしてアフリカで起きている集団的自衛を必要とする紛争には、ECOWAS諸国がアフリカ連合の枠組みで地域的安全保障の一環で対処している。
つまり国連の外での集団安全保障が形となってきている。北欧諸国は国連の待機制度を補完する仕組みとしてSHIRBRIGを創設した。欧州連合はOSCEを、アフリカ連合はECOWASの枠組みを活用して地域の安全保障を担っている。だがアジア太平洋・オセアニアには、同様の機構はない。
安倍政権は、アセアンなどアジア各国を味方に引き入れ、中国包囲網を構築しようとしている。しかし多くの国に経済的影響力を持つ中国を孤立化させるのは得策ではないだろう。各国の経済力及び防衛力を現政権は補てんするつもりでいるようだが、消費税を10%に上げてもそんな財源は生まれない。いずれ破たんする。
地域の緊張が高まれば、集団的自衛の「需要」が生まれる。地域大国として、日本はその需要を餌に武器輸出を行い、自国のプレゼンス拡大を図ることができるだろう。だが、それが何をもたらすのだろうか。
またその間、再びミャンマーで起きたハリケーンナルギスのような被害や、スマトラで起きた巨大地震・津波の被害が起きたらどうするのか。アセアン+2の小さなコミュニティだけで相互に友好的に対処できるのだろうか。またその土壌は育っているのだろうか?
私は、我が国が目指すべき地域安全保障の在り方は、「支え合う安全保障」をその根本理念とし、有事に互いが協力し合え、また共同で対処し、あるいは防ぎ、紛争を共同で解決するような枠組みをアジアに作ることだと思う。
それは、古典的な「集団的自衛」の概念に根ざす伝統的な国家間の「共闘」ではなく、互恵的で将来に渡って各国の信頼醸成に繋がり、それによって将来の紛争の要因を根絶するような「協働」であるべきだと思う。この国際的な協働体制を先導するのが、私は我が国の使命だと思う。
中国をそうした地域的枠組みに取り込むのは難しいかもしれないが、大局的な利点を見いだせば実現は可能だと思う。中国はASEANにも参加している。必ずしも一国主義で覇道を目指している訳ではない。だから日中豪などで主導して、地域安全保障機構を創設することは可能だと思う。いわば、アジア太平洋諸国連合(APU)だ。
「集団的自衛」だけが脅威払拭の道か?否、人類社会には英知がある。国家による「保護する責任」が認められそれが実用化される段になって現代において、共通の脅威に対処する方法は、他にもある。単なる対話でもない。譲歩でもない。運命共同体の中での責任の分担と分配。
アジアは広すぎる。一国や二国でどうこうできる領域ではない。だから、連合を組む必要がある。中国という困った国がいるとして、それで衝突の拡大に怯えながらただただ軍事力を抑止し、常に緊張を維持することが、果たして得策なのだろうか。
日本が「普通の国」になれるかどうかの瀬戸際?違う、日本が現代を生きる「先進的な国」になれるかどうかの瀬戸際だ。それが、この集団的自衛権の議論に重くのしかかっている。そのことを、賛成派も反対派も、認識すべきではないのだろうか。
これは先進国の人間としての驕りと捉えられても仕方ないが、申し訳ないが、日本より二十年・三十年遅れているかもしれない周辺国が中国の脅威に軍部増強で対処しようとしているところに、彼らよりも二十年・三十年先を行っている日本が、彼らに与えられるのが軍事力増強による安心だけというのは情けなすぎないか。
本当に先進国であり、その経済力・工業力を生かして地域の平和と安定に貢献したいと願うのであれば、それは緊張を高めることで二十世紀型の「力の均衡」を生み出すことではなく、周辺国をより先進的な道に導くような提案を行い、緊張を緩和することにこそ注力し、先導することではないのか?我が国には、船頭さえ違えば、それができるのではないか?私は、そう信じたいし、そう信じる。
だから、この議論を巡って単純に賛成か反対かという立場には与しない。
第三の選択肢は、常に存在する。
「支え合う安全保障」はその第三の選択肢になりうると思う。
以上、ここまでの長文の精読を感謝します。
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