以下は次の対照的な引用とツイートに端を発した連続ツイートの内容を再編成したものです。
「我々ドイツ人は何年もの間、ユダヤ人を迫害し、罵声を浴びせる社会を許容してきました。たとえ何千年が経とうとも、我々の罪の意識が消え去ることはないでしょう」―被告人ハンス・フランク(ニュルンベルク裁判にて)
どのくらい時間が経ったら敗戦の責任は消えるのだろう。被害者が加害者を許す日がいつか来ると信じたい。(@tomisaka55氏)
加害国の国民がその総意として加害の事実を認め贖罪しないうちは、いくら時間が過ぎても許されないだろう。「謝ったじゃん」「金払ったじゃん」「援助してるじゃん」「平和主義になったじゃん」「軍なくしたじゃん」「これ以上何を望む?」―というのは、贖罪してる者の姿勢ではない。
日本が被害国だったら、どのくらいで許しているか。何をしたら許しているか。
その辺を、想像力働かせて考えてみたらどうだろうか。
国家が加害者であり、その為の責めをすべて負い、国際的責任をすべて果たしたことと、国民ひとりひとりが背負うべき呵責という罪の意識はまた別のものだ。
他方、いつまでも加害者であったことを武器にして不当な要求を続ける輩(国・人々)には、国家としての責任は果たしてきた、という正当な理由を背景に毅然とした姿勢で臨まなければならない。
これは、それぞれ別の話なのだ。
だが、日本人の中では、これらが一体となっている。そこに例の「輩」がつけこむ隙があるのだ。国家が責任を果たしていることと、国民が自らの意識としてその責を永久に負う姿勢を保つかは別の問題だ。その姿勢が見えないから、つけこまれるのだ。
いつから日本人は、自らの行動に裏付けられた正当性に対する自信というものを失ってしまったのだ。その正当性を否定する輩に対してなぜ自らをその程度まで貶めて張り合おうとするのだ。
何の益があるのだ。
要はバランスの問題であり、区別の問題なのだ。国の問題は国の問題、国民個人の意識としての問題は別の問題。国が行ってきたことは、自分の意識と符合してこそ価値がある。でなければ、ただ「国がやってくれていた」だけのこと。そんな意識で被害者が納得する訳がない。
つけこむに決まっている。
ひとつ確かなのは、国の贖罪行為については、我々国民も血税を差し出すことで確実に関わっているし、関わり続けているということ。金額的には途方もないだろう。だが受け手はこれを賠償金代わりだとは思っていない。国民もそうだ。ここに意図と実態の解離がある。
これが我々納税者には歯がゆい。
だがここで誤解してはならないのは、対中・対韓ODAは通常の課税の範囲で賄われてきたということだ。つまりそのための増税というのは起きていない。我々納税者は無理に賠償金がわりのODAや円借款のために追加課税されていた訳ではない。政府は通常の予算枠から賄っていたのだ。
暴言承知で言わせてもらえば、我々国民は政府が税金をどう運用しているかについて、長年関知することもなくただせっせと求められる税金を払い続けてきただけで、そこに呵責や罪の意識、贖罪の気持ちなどはじめから介在していない。仕方ないと、いう意識すらない。
つまり、何もしていないも同然なのである。
全てが政府や、一部の民間交流団体任せとなっていては、国民ひとりひとりの意識に贖罪の気持ちなど芽生えよう筈もない。そうした国民の中から、いま「極右」と世界に揶揄されてしまうような政治家が台頭し、支持を集める。
さて、端から見て、この国の住民は反省しているように見えるだろうか。
本来、ここをうまく「調整」するのが政治と外交の役割である。単に形式通りの支援や交流を行うのではなく、両国民の和解を推進する役割を、歴代政権は担ってくるべきだった。しかし政府任せにしていたら、政府がここを一番疎かにしていたことがわかったのだ。
だから民意のブレーキが効かない。
このことは何度も触れているが、私の祖父は満州で中国人を裁いていた罪で戦後シベリア送りになった人だ。帰国後祖父は日本国憲法を一から学び直し、法曹界に身をおき続け、生涯を法治と司法の発展のために尽くして80代で他界した。それが祖父の贖罪行為だった。だがそれで終わりだとは思わない。
考えてみてほしい。
戦後、焼け野原の中から復興と国家再建に努めた人たちが、すべての責めを負うというのは道理に合うんだろうか。実際に戦場にまで行って捕虜としての待遇を受けた祖父の世代が、全ての責めを負って贖罪して生涯を全うした。それで終わりにしていいのだろうか?
なぜ、私たちよりもはるかに過酷な時代を生きてきた人たちに全ての罪を着せて安穏としてられるのだ。彼らも私たちと同じ日本人、同胞だ。英霊といわれる人たちだけを敬い、この国をいちから作り直してきた人たちに対しては敬意の念もなくただ責めを負わせる。
私達はそんな恥知らずな民族なのだろうか。私はそう思いたくない。
歴史は教科書の中にだけあるのではない。
歴史を必死で紡いできた、幾千、幾万の無名の人々のおかげで、いまの私たちの生活がある。この当たり前のことに有り難みを感じていたら、歴史の汚点をすべてその時代の人の所為するような、そんな恥ずかしい認識は持てないだろう。そしてそれは日々の言動にも現れる筈だ。
贖罪はそこから始まる。
いまの日本の政治や報道の風潮では、一般の世論の中でも私のような考え方は受け容れられにくいのかもしれない。しかし、私は日本人が、日本という国が、歴史的難題であるこの戦後処理問題を穏便に、様々な知恵を結集して創造力を働かせ、解決する英知を持っていると信じたい。