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2012/03/06

コラム:なぜ私は原発に抗うのか


今日のお昼に頂いたひとつのツイートから、自分の思いを綴ってみました。



何もなかったみたいに、見ないようにして、聞かないようにして、声にしなかったら、3.11前と同じようにおもしろおかしく暮らしていけるんだろうか?そんな風に流れている日常を目にすると、何だか悪い夢の中にいる気がしてくる。もうすぐ1年になるのに。(@urutobiさん

人には、自分の力で拒めることと拒めないことがある。情報の遮断は前者。忌まわしい記憶による苦悩が後者なのだと思う。しかし拒めないものがあることを憂い嘆く必要はないと思う。それは弱さではなく、人間らしさなのだから。すべてにおいて強くあろうとしたら、心が折れてしまう。

時には刻の流れに身を任せ、時には逆らう。それが人間。
ただ、逆らえるものには常に逆らえるようでありたいとも思う。

ある寓話の教訓

日本昔話か、ドラえもんかなんだかろうか。昔、こんな話を見たことがあった。
海底に生える昆布の話・昆布の兄弟の中で一人気の強い子がいた。5人兄弟の末っ子のその昆布は、いつも潮に流されてフラフラとしている兄たちをふがいなく思っていた。ある日、激しい海流が昆布たちを襲う。末っ子の昆布はここぞとばかりに背一杯根っこ(?)を伸ばして踏ん張った。兄たちは口々に「流れに身を任せるんだよ~」とのんびりと言う。末っ子昆布は「なんて情けない!僕は絶対に踏ん張ってみせるぞ!」と、あくまで海流に逆らう。必死に踏ん張る末っ子の昆布。でも海流の力は圧倒的。容赦がない。流れに逆らおうとした末っ子昆布は引きちぎれて四散してしまった。残った4人兄弟はゆらゆらゆらゆらと、激しい流れに身を任せ、なびいている。そして生き残った。
この話の教訓は、力あるものに逆らうなとか、そういう意味ではない。自然界の力は人智を超越している。自然に逆らうより、自然と共に生き、その力を受け流せということなのだと思う。

地震とともに生きる我ら日本人にとって、これは何を意味するだろう。

地震の力なんて、受け流したってそれで生き残れるものではない。ならば、共に生きることを選択することは賢明ではないのではないか。だが地震という自然の脅威を、抗えないものとして心の中で受け入れたらどうだろうか。それだけで、日々の恐怖からは解放される。そう自分の中で選択しているから。


抗わなければいけないのは、自然の力の及ばないところで、自らの選択で生き残る可能性を少しでも伸ばすことのできることだと思う。三船敏郎が出演した『生きものの記録』という反原発映画の中で、三船扮する中島喜一がこう叫ぶシーンがある。

 「死ぬのはやむを得ん。だが殺されるのはいやだ!」 と。

これに尽きると思う。自然災害によって死ぬかもしれないということは、受け入れることができる。けれども、条件さえ違えば生きられるかもしれない。生き続けられるかもしれないと思えば、抗うだろう。それが人間であり、人の営みを続けるということだ。誰でも、「殺される」のは御免だろう。

昨日、なにげに開いた漫画『日本沈没』の第六巻に、恐ろしい「記録」を確認する記述があった。それは、関東大震災でどれだけの人間が、知識不足により死亡したかということ。そしてその記憶を、現代日本人は全く「忘れてしまっている」(記憶喪失になっている)こと。たとえば、こんな記述がある。

東京墨田区の横網公園にて、それを「語り続けている」モノがある。
『大正十二年九月一日の関東大震災の時に猛火と熱風で溶解した丸善ビル・鉄柱熔塊』。
「屋外展示のオブジェではない。火炎で熔解したビルの鉄骨である」(参考


さらにこう続く。

「14万2千人といわれる総死者数のうち3万8千人とも4万ともいわれる人々が…正午の地震から数時間後の午後3時頃…10数分の間にその広場でまとめて死んだ。建物の倒壊、火炎での焼死を逃れ、着の身着のままではあるが、命は助かりひと安心…そうした約4万人の人々は…川幅200mの隅田川を渡って襲ってきた火炎旋風によりほとんど一瞬で絶命した。それが陸軍本所被服廠跡地の惨事である」(『日本沈没』第6巻「記憶喪失の国、記憶喪失の首都。①」より)
これは火炎旋風を発生させる物理的条件が当時の東京に揃っていたからだ。
そして近代都市化した今も、その構造は残っているという。

漫画『日本沈没』第6巻では、西新宿で将来起こりうる「火災の成長」による被害を、現代の建築学、物理学の知識を総動員してシミュレートしこれを「第二次関東大震災」と命名した。大正の大震災で4万の人間を焼失させた「火炎旋風」が起こる条件が今も揃っているという前提だ。

だから、抗う

長い前置きになったが、要は住む場所によっては、自然災害によってもたらされる被害からは容易に逃れようがない。よほど正しい知識を持って、正しい判断を随所で行わない限り、都市部で生き残るの至難の業だろうということだ。これは自分の置かれた条件によるものなので抗いようがない。

だが、抗えるものはまだある。仮に都市部での被害を生き延びたとして、その後に安心して暮らせる条件を確保するためだ。

私にとっては、それが脱原発だ。自分が、家族が、子供が生き残る、生き延びるチャンスを少しでも伸ばすために、人工の条件は極力取り除かなければならない。折角生き延びるのだから。

命からがら生き延びても、その後に「震災以外の原因」によって安心して生きられないなんて、納得できないし、してはならない。「条件さえ違えば、生き延びれるかもしれなかった」━人々が生きる機会を少しでも残そうと思うのならば、リスク要因は限りなく減らすべきだ。

だから、原発に抗う。
だから私は、原発に抗う。

いざというときに一人でも多くの人が生き続けられるように。



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2012/03/04

SimSovereign: Upgrading Our Democracy to A New Level


Reading WIRED news on the consumer preview of Windows 8 gave me an idea of how to upgrade our democracy into Democracy 2.0.

Think of our political system as equivalent to the OS. OS is almost universal. It's the foundation of our modern information society. If there's a "consumer preview" for a commercial OS, why not have a "constituents preview" of the incoming government? My idea started there. If we can download the very fabric of our information society for a tryout why not incorporate this into our political system, or the method of selecting our government?

The whole purpose of the "consumer preview" is to have the consumers try out the actual product before its product release, gain their feedback and reflect them on the product release so it can be improved. So if we can "install" and "uninstall" as we please this Consumer Preview before its final release, why can't the same be applied to politics--or should I say, our sovereign right to choose our own government?

Companies also have trial periods, usually about a year. Companies can choose whether the future employee is fit for the company as a whole, his/her performance in a specific line of work, and finally, whether the person is a productive or disruptive newcomer to the company or not. Why can't this be applied to the way we choose our own government?


Installing Democracy 2.0

So how's this: "install" any government and allow it to demonstrate its capacity to govern over a period of 1 year, and for maximum of 5 years, the government gets to reshuffle the combination of its administration. During these 5 years, the pilot government will have limited powers, and people gets to make judgments, give feedback to see whether they can improve their performance. If it doesn't, they can choose to "Uninstall" no questions asked.

After the 5-year testing period, the government is fully "installed" and is allowed to govern with full powers granted for the next 10 years without election or change of government. In 10 years time, the current government can run for re-election and if people approve, they can run for another 10 years. The maximum term any chosen government can run will be limited to 20 years without re-election. After 20 years, the ruling coalition cannot run for another 20 years until the next government finishes its term.

The positive side of this is two-folds. One is that you get to 'test' governments before actually giving them full power to govern. The other dimension is that while the 'product release' government is in power, citizens do not have to be preoccupied with elections and politicians holding up to its campaign promises. Once the government is chosen, the government will rule with full confidence and citizen will assume full responsibility for making the choice for at least 20 years. So there's a sharing of responsibility here.

The negative side of this is also two folds. This system is based on the notion that corruption is not a mater of time but of the given condition; that if right condition is provided people will live up to its given responsibility and thus perform better. But there is always a possibility that the length of right to govern will bring forth corruption and that the level of corruption (severity) will be commensurate to the length of time. The primary design of the 1-year test period has this in mind. On the other hand, 1 year may not be enough to test the full capability of a government. We may have to establish distinct set of criteria to be able to judge the performance of a government efficiently and effectively.

So there are advantages and risks involved in this new system of democratic governance.

Testing the New System

One distinct advantage over our forefathers of democracy in Europe and North America is our technology. What the use of technology if it doesn't contribute to the betterment of our lives in its truest sense? If we have SimCity, SimEarth, SimNations, and a virtual cyber society where new currencies can be used (I forgot its name), then why not create a full-fledged simulation system of a new form of democracy? Call it "SimSovereign" for now.

I have no idea how such sophisticated system of decision making can be created. That's up to the creators. But I believe the art of gamification that we've come to recognize as a useful tool of social integration should be upgraded to a new level. Up til now, SLGs only simulated a world within our own boundary of reality. In other words, nation building was based on the 20th century notion and system of governance that we know today. If we are to simulate a new mode of democratic governance then its game system must be based on the 21st century notion of democracy, Democracy 2.0.

The Arab Spring and the social media revolution have led us to believe that a minor upgrade of our democratic system may be possible. But minor upgrades can by definition only do little and fundamental changes cannot be expected. Changing our election laws or just moving power from one to another does not resolve the fundamental issue of democracy. If we are to change the system, then we ought to change 'the' system--our OS, our government, the way we choose our government, and more. Then can we achieve a true change in our system, and upgrade our democracy to the next level. Till then, we have the time and the technology to test them.







2012/02/26

脱原発:個人で出来る効果的な一斉行動―「メガバンクの口座解約」



【デモや署名よりも効果的】大手新聞とNHKを解約し、地元選出の国会議員が誰かをちゃんと知る。原発設備を受注する大資本や旧財閥系メガバンクからお金を吸い取られない地域型小経済圏を全国に確立する。→ 詳細


人が作り上げたもので、人に作り変えられないものはない
昨年11月、アメリカのOccupierの間で「99%のカリスマ」と呼ばれるグレン・グリーンワルド氏の講演会に行く機会に恵まれた。そこで聞いたある言葉が、私を突き動かした。

「人が作り上げたもので、人に作り変えられないものはない」

その通りだ。現在ある磐石かに見える体制も普遍のものではない。そして、その体制を変える手段はある。それを Occupy運動を支持するハッカー集団のアノニマスは、世界の市民に呼びかけていた。


自分たちだけのことを考えてもいい。
自分たちのために行動すべきときがきている。
さあ、あなたならどうする?と。

私は滞在中に現地口座を全て解約した。

以下は、当時現地で呟いた内容をまとめたものをブログ用に再編したものである。


誰もが参画できる行動

グリーンワルド氏は、「何故Occupy 運動に期待するのか」という聴衆からの問いに対して冒頭にあるように答えた。社会正義の二層構造も、所詮は人が作り上げたもの。人に変えられない筈も、壊せない筈もないということ。

問題は、「変え方」あるいは「壊し方」だろう。ここで私は、従来の革命のように完膚無きまでに叩き壊す方法よりも、ビルの倒壊を誘い込む「計画爆破」に近い壊し方が最も効果的で、付随的被害が少ないのではないかと考える。

昔、三田工業のCMであっただろう。あれだ。


この「計画爆破」は、ピンポイントで構造体の適所に爆薬を仕掛ければ、実に効果的にかつ最小限の労力で巨大なビルを倒壊させることが可能。これを、「体制」という構造を倒壊させる戦術として考えると、では構造体の最も脆弱なポイントはどこか、ということになってくる。アノニマスは、そこを突いた。

昨年11月に世界規模での実行を求められた「銀行口座一斉解約」行動がそれだった。(当日の記録
日本でも同様の提案が脱原発ポスター展でなされた、それが提案④だ。



これら「1%」の体制を支えているのは、我々「99%」の預金。これはとくに預金率の高い日本で言えること。
実際、預金率が極端に低いアメリカではこの戦術はあまり意味を持たないとすら思う。

けれども世界的にも高い預金率を誇る日本で、これほど効果のある戦術はないだろう。国民にとって害でしかない産業を支える金融界の資金源を、我々の力で止めることができるわけなのだから。そしてこれは完全に合法で、単に「消費者行動」としか形容できないこと。仮に集団で一斉に行ったとしても、違法とはならない。

アメリカでは、この「口座一斉解約」行動のために、 Occupy運動に参道するユニオン系の銀行が口座の転送の受け皿となっていた。残念ながら、日本では受け皿になる独立系金融機関は名乗りを上げていなかった。が、一行だけ毛色のまるで違う金融機関が存在する。城南信用金庫だ。

個人の力の集合で“体制”に致命的打撃を


日本ではまだ、Occupy 運動は大きな潮流とはなっていない。しかし根底にあることは同じ。
脱原発も反TPPもOccupy運動も「少数による多数の支配をやめさせようとするもの」であることに変わりはない。
ここに、日本の反体制=反原発運動と Occupy が連動できる素地がある。

日本で100万人、いや10万人でも、一斉に預金引き出しを行ったらどうなるだろうか。日本は預金率が高いだけでなく、一人当たりの預金額も、世界的に見ても高い部類に入る。1世帯あたり1,000万以上の預金を10万人が引き出したらどうなるだろうか。

この力、実感できるだろうか

無力と感じる現代社会でも、個人の力が合わさることでとてつもない力で巨悪に立ち向かうことは可能だ。グリーンワルド氏の言う通り、「人が作るもので人に変えられない・壊せないものはない」。

ならば、壊してみようではないか。個人の力の集合で!

預金は私たちの個人資産、どう使おうが勝手。いつ引きだそうが、「お客様という神様」の私たちに銀行は何も言えない。完全に合法的な行動で、「計画爆破」を起こして体制を崩壊に招くほどの致命的ダメージを与えられるとしたら、その機会があるとしたら、行動を起こさないだろうか?

尚、実際に行動するといっても、本当に集団で銀行に押し掛けて「我々は消費者の権利を行使する!引き出しに応じろ!」みたいに動くのは逆効果であるばかりでなく、意味がない。騒げば当局は動く口実を得るし、実際ニューヨークでは24名が覆面警察官に待ち伏せに遭い逮捕されている。



いまや警察国家となり臨戦態勢にあるアメリカでは、それなりの実質的リスクが伴う行動でもあるということだ。

粛々と、個人個人の都合で、いつも行く銀行に行って、引き出し・解約手続きをすればよい。実に簡単なこと。そして、大勢の人間がやればやるほど、その効果は劇的に上がる。まさに体制という構造体は、「立っていられなくなる」だろう。アノニマスが呼びかけたのは、このための行動だった。

日本でも、この行動には一定の効果が望めると思う。ただし、決めるのは、あなただ。

さあ、あなたならどうする?
いまTPPや原発等の体制側の方針に反対している人は、本当の敵は単なる「外圧」や「体制」でないことに気付かなければいけない。本当の敵は、彼らを永らえさせてきた私たちの無関心と無行動にある。せめていま、私たちは大きな関心を持った。次は、行動に示すことだ。その機会が訪れた。あらゆる媒体を通じて原発やTPPに「反対」の意思を声に出している人たちよ。あなたたちの次なる「具体的行動」は何か。声をあげるばかりでもない、デモに参加するだけでもない、「より具体的な行動」がとれるとしたら、あなたたちはどうするのか。決めるのは、あなただ。



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2012/02/22

普天間返還:在日米軍再編に関る最重要文書の扱いを取り違える外務省


「在日米軍再編」のページに表示されなくなった2010年5月の日米合意


2012年2月22日現在、
外務省の「在日米軍再編」ページ10年5月の「日米共同発表」のリンクが表示されなくなった。重要文書の筈が、なぜか。かわりに、あまり注目されなかった11年6月の「日米共同発表」は掲載されている。

なぜか、少し調べてみた。(以下、強調追加)

(実際の外務省ページでの表示)


10年5月の日米共同発表は、このように単独で探すと見つかる。だが、12年2月の「共同報道発表」はこの文書の流れを汲んでいる筈なのに、「在日米軍再編」ページに、この文書の重要関連文書としての記載がない。

「2月合意」「5月合意」「6月合意」それぞれの性質と違い


10年5月の「日米共同発表」(以下、「5月合意」12年2月の「共同報道発表」(以下、「2月合意」の違いには興味深いものがある。

 「5月合意」は、再編問題の最高協議体である2+2安全保障協議委員会による具体的な再編計画の実施内容となっている。

「2月合意」は、数日間の審議官級協議で決まった今後の方向性についての基本合意でしかない。

ところが、「2月合意」には「<仮訳>」の断りがなく、どうやら正訳とみていい。
一方、「5月合意」には「<仮訳>」としっかり銘打ってある。

「5月合意」は日米両政府の最高位の協議体による数ヶ月に及ぶ交渉の末、調印された合意である。それが仮訳扱いになっていて、しかも「在日米軍再編」の項目の下に関連文書としての記載がない。一方で、数日間の審議官のみの協議で為された合意が正訳で、「在日米軍再編」の項目の直下に記載されている。

これは何を意味するのか。

「日米安全保障」のページの「在日米軍再編」の項目を見ると、12年2月の「日米共同報道発表」(正訳)→11年6月の2+2「共同発表」(仮訳)→06年の「再編ロードマップ」(仮訳)と並んでいることがわかる。時系列順に見ても、「5月合意」の外交文書上の位置付け(再編計画の実施合意内容)からしても、おかしい。(以下、強調追加)

(実際の外務省ページでの表示)


外務省が公開している11年6月の合意(以下、「6月合意」)は、「5月合意」とは性質がまるで違うことが見比べるだけですぐにわかる。具体性がまるで違うのである。「6月合意」は、日米同盟全般に関る政策方針を示したもので、在日米軍再編や普天間移設に関る言及は一切ない。これは、文書中で「普天間」や「グアム」で検索すれば判る。

「2月合意」は、2+2合意ではないことは前述した。一方で、両国は正式に「5月合意」を破棄していない。その後、11年6月にも「6月合意」とは別に、委員会文書を発表している。これらが、「見直し」のための協議の対象である。にも関らず、外務省は「5月合意」も6月の「委員会文書」も、これを重要文書と位置づけた情報公開を行っていない。

まとめ:それぞれの文書の性質と位置づけ


上記の観察をまとめると、こうなる。

①在日米軍再編に関る文書の本来の性質と位置づけ(時系列順)

②外務省が公開するそれぞれの文書の本質と位置づけ(時系列順)
「5月合意」=非表示(※少なくとも関連政策ページにリンクなし)
「6月合意」=日米関係全般に関する2+2日米安全保障協議委員会の基本姿勢を表明する報道発表
「2月合意」=前回合意の見直しに関する審議機関協議での基本合意の報道発表(共通)
外務省の情報公開のあり方が、いかにちぐはぐであるかがわかったと思う。
深く調べない人間は、表面の情報だけでこれが全てだと判断してしまうだろう。

不思議なことに、日米安全保障協議員会の英語版ページではこの通り、ちゃんと時系列順に、2+2合意が並べられている。対外公報ページでもある英語版で、国内向けと同じ情報の取り扱いはできないわけだ。政策扉ページではない、日米安全保障協議委員会の日本語版にも、全記録の記載が当然ある。

(実際の外務省英語版ページでの表示)

U.S.-Japan Security Consultative Committee (2+2) (June 2011)

Japan-U.S. Security Consultative Committee (2+2) (May 2010)

<平成23年6月21日>

<平成22年5月28日>



そして、ここにこそ、日米両政府の本当の普天間問題に関する最新の公式協議の記録が残されている。 それが上記まとめの①で示した「6月合意」に当たる在日米軍の再編の進展に関る文書だ。この文書こそが、「5月合意」を真に継承する計画合意文書である。
本来、外務省は「在日米軍再編」に関る最重要文書としてこの文書を前面におき、共同発表のような声明の類は報道発表として別途分類しておくべきである。 現在進行中の協議によって見直されるのもこの委員会文書の内容なのであるから。
報道の内容を含め、本件に関心のある人間はそこを注視する必要がある。



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