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2014/07/07

長編コラム:集団的自衛権は正しくも、必要でもなく、抑止効果もない。各論②集団的自衛権の行使容認は「必要」ない

集団的自衛権 の行使容認は、必要ない。

1.経済安保上の事由でも「必要ない」


行使容認が「必要」であるとする一般的な理由は、経済安全保障上の事由、集団安全保障上の事由、防衛上の事由の大体3つに大別されるだろう。このうち、防衛上の事由の一つに「抑止力向上」が挙げられるようだが、これについては本稿では敢えて触れない。

経済安全保障上の事由の一つとして政府が例として挙げたのが、エネルギーの安定確保事由であるが、これは日本を含む欧米側の対イラン関係の悪化によりホルムズ海峡などが封鎖された場合に備えてのことだという。

ここで不可解なのが、「関係悪化」が前提とされていることだ。

昨今、欧米とイランの関係はこれまでにないほど良好である。イランの核開発問題における制裁解除に向けた歴史的交渉の成功により、両者が歩み寄りを見せ、依然緊張はあるもの、近年稀にみるほど友好な状態にある。

その中で、交渉に参加すらしていない日本政府が周回遅れでイランとの関係悪化を前提にその対策の為に #集団的自衛権 や集団安保行動への参加が「必要」だという。何か一般に知り得ない関係悪化の兆候の情報でも掴んでいるのだろうか。

安全保障において最悪の事態を想定するのは当然なので「ホルムズ海峡封鎖」というオプションを考える「必要性」はわからないでもない。

が、現状を無視して最悪の事態が起こり得るというのなら、そのプロセスを国民に説明して然るべきだろう。即ち、外交交渉の破たん過程だ。

また、日本政府としてイランにどう接するのか、単純に欧米側に与して敵対し、歩調を揃えた制裁行動をとるだけなのか。それとも「積極的平和主義」に基づき平和裏に解決できるよう和解に努めるのか。

もし前者なら、何故ただ歩調を揃えるのか説明が必要だ。後者なら、どう和解努力を進めるのかの具体的方策の説明が必要だ。

そのいずれもなしに政府は、「ホルムズ海峡が封鎖」された場合」と、プロセスをすっ飛ばして最悪の結果が招かれた場合の対処のために、 #集団的自衛権 の行使容認が必要だとしている。単なる事例だとしても、あまりにも乱暴だろう。

その上で、百歩譲って最悪の事態が起きたとしても、集団的自衛権・集団安保措置いずれであっても、有事の共同任務対応なのだから、共同部隊防護で対処は可能である。

まず公海上の船舶の防護は、地理的制約のない武力事態対処法の適用で個別的自衛権により可能である。更に共同任務時の相互の艦艇防護については、共同部隊防護の原則適用により対応できる。

現行の法体系がこれに対応していない場合は、集団的自衛権の容認をせずとも武器使用基準(部隊行動規則)の緩和により対応できる。

政府の「論理的整理」は、部隊防護のための部隊行動基準の緩和のために憲法解釈の「再整理」が必要ということなのだろうが、それこそ政府解釈により、単独的自衛権は慣習国際法上認められた権利であり、これに基づく共同部隊防護を合憲と解釈すればいいのである。拡大的に憲法の基本理念まで解釈を修正する必要はない。

したがって、エネルギーの安定確保等の経済安全保障上の事由により #集団的自衛権 の行使を容認する「必要」はない。

これは、集団安全保障上の事由についても同じである。

2.集団安保上の事由でも「必要ない」


政府の「再整理」では、個別的・集団的自衛権の行使に基づく活動が途中で国連の集団安保措置に切り替わったとしても、日本は個別的・集団的自衛権の行使として引き続き国連の集団安保の枠組みでも活動できるというものだ。

従来の憲法解釈では集団安保における武力行使には参加できないことから、その解釈のままだと活動を停止しなければならない。「それはおかしい」というのが政府の考え方の起点だ。だから「可能な筈だ」という結論ありきの考え方で「再整理」されている。

しかし、そんなしち面倒くさく考えなくても、集団的自衛権なしでも共同部隊防護を可能にすればよいのだから、集団安保措置においても当然、この同じ考え方で対処は可能は筈なのである。国家としての自衛権は安保措置の発動と同時に停止されるからである。

集団的自衛権・集団安保措置の両方について現在政府が抱える(と主張する)人道上のジレンマは、いわゆる「駆けつけ警護」ができないことで、自らは他国の部隊に守ってもらっても日本側は守ることができないというものだ。

日本側は命を懸けて貰っているのに日本側は相手を守れないでよいのかと、「特異な法体系」により足枷をはめられた自衛隊を解放しようと「道義的な責任」を持ち出して情に訴えているのだ。これは情緒論だが正論である。

ならば、解決策は簡単である。共同部隊防護のための単独的自衛権の行使を認めればいい。これはこれまでの憲法の運用上の解釈が厳格すぎておかしかったのであって、そこを緩和するだけで足りる。それは運用面の改善だけで済む筈である。

よって、経済・集団安保上のいずれの事由による「必要論」も #集団的自衛権 の行使容認を必要とするには根拠薄弱なのである。現行の体制を少し変えるだけで対応できることであり、憲法の根本理念を書き替えるような抜本的修正は「必要ない」のである。

3.おわりに


最悪の事態を想定して対策を立てるのは、国民の生命と財産を保護する国家の一義的責任である。がしかし、最悪の事態に至らない道程を志向し、かつ具体的にこれを回避する策を講じるのもまた、国家政府の一義的責任を構成する。

また最悪の事態を回避する対策を検討するに当たっては、その費用対効果等、かぎりなく合理的で財政負担の少ない手段を講じるのも国家政府の務めである。

現在の日本政府の考え方には、この発想が根本的に欠けているように思われる。

個別的・集団的に依らず、一般に自衛権の行使には「他に代替する手段がないこと」が要件とされる。即ち、外交的手段が出尽くしていることが前提であり、それ以前に各国との友好関係を構築する予防外交を展開する能力が訴求されるのである。

安易に権利拡大を求めるより先に、政府は外交能力の強化を通じて他国との関係を良好に維持し、尚且つ、有事には適切に対処できるよう体制を整えるのが肝要であろう。軍事力を外交力の延長、あるいは背景とする考え方は前時代的に過ぎる。

政府は、「必要のない」権利拡大よりも、「必要のある」努力を行う体制を整えることに腐心すべきであって、国際社会における軍事力を外交交渉における万能な道具のように捉える「ハコモノ行政」的な考え方は捨てるべきである。

以上

次で本シリーズ最後となるが、 集団的自衛権が抑止力向上の効果を持たないことについては、また次回、論じることにする。

長編コラム:集団的自衛権は、正しくも、必要も、抑止効果もない。各論③集団的自衛権の行使容認に抑止効果はない

集団的自衛権の行使容認に抑止力向上の効果はない。
それは、端的にいえばアフガン戦争をはじめとする「テロとの戦争」の成果を見ればわかる。

1.非対称的な戦争(テロ戦争)での抑止効果


第二次世界大戦ですら、5年で終結した。ところがアフガン戦争だけで13年も続いている。
民間人約2万人の命と、多国籍軍兵士約3000人の命が失われている。

またアフガン戦争の勃発により、テロの脅威は世界に拡散し、かつ増大した。911直後、インドネシアのバリで、スペインの鉄道で起きたテロ事件を覚えているだろう。日本でも炭疽菌テロに備え民放が公共放送のように報じる事態となった。

同時に、アフガンで展開していた不朽の自由作戦(OEF)のバージョンは各地で増えていった。例えばアフガンでの作戦はOEF-A。フィリピンでの作戦はOEF-P。ソマリアの破たん国家が点在する「アフリカの角」でのOEF-HOAという具合に。

アメリカが各地で戦争を起こすたびに、テロ組織や反米勢力は世界各地に分散した。近年ではリビアやシリアにも散らばった。非対称的な戦争は拡大するばかりだった。

おかげで世界各地でテロ戦を展開しなければいけなくなっており、米軍はいよいよ単独でも、集団でも対処しれきなくなっている。(ここに日本が加勢してどうなるという話でもある)

その上、アフガンでの軍事作戦は未だ終結しないまま、米軍は遂に撤退を決めた。米国の敗退であり、集団的自衛権の敗北である。現代において集団的自衛権の行使がいかに実効性を欠くものであるかの証左である。

集団的自衛権は、非対称的な戦争においては効果なしなのである。

2.対称的な戦争(国家間の戦争)での抑止効果はどうか


現在のウクライナ内乱における親ロシア派勢力が、ロシア本国の軍事的支援を受けていることは周知の事実である。ロシアは巧みにその影響力を駆使して親ロシア派の政治勢力を抱き込み、主権国家の領土を平和的に併合するという戦争行為に至った。

ウクライナ及びロシアは独立国家共同体(CIS)のメンバーであり、本来同盟関係にある。その共同体の中でのいざこざについて、CISはまったく解決策を示すことができていない。これは集団安保体制の限界を示しているが、重要な教訓でもある。

一方で、ウクライナが供給する天然資源エネルギーの供給はNATO諸国には死活的に重要である。さて、NATO諸国はその経済安全保障上の脅威であるロシアの行動にどう対処しているだろうか。

集団的自衛権の行使を宣言しただろうか?

実はウクライナもロシアも、NATOの「パートナー国」である。直接の加盟国ではなく、軍事力も貢献できないが、少なくともNATOの「敵対勢力」ではないのである。

このようなロシアの巧みな無力化工作により、NATOは事実上、ロシアをはじめとするCISに集団的自衛権としての軍事力行使をできなくなっているのである。軍事力による同盟は、政治力・経済力で突破できるのである。

21世紀の現代において、多国籍軍による集団安保行動には一定の活路があるとしても、NATOの肥大化した前時代的な同盟はもはやその存在意義を失っているといっても過言ではない。同盟国の中に敵性国家が存在したときにこれを制裁する機構がないのだから。

英フィシャンナルタイムズは、「日本がやっと普通の国に近づいた」と論評したそうだが、大きなお世話である。いまさら、米国の戦争に付き合うしか大義のなくなった集団的自衛機構に貢献する力を日本が持ったとして何になるというのか。

もし、同紙が論じるように日本にアジアにおける集団安保体制を構築する能力があるのならば、それは時代遅れなNATOのような地理的制約のある集団的自衛機構ではなく、軍事・政治・経済的な問題を平和裏に内部で解決する統合的な機能を持つ、共有型安保機構となるだろう。

現在の集団的自衛権に基づく軍事同盟機構では、国家間の対称的な戦争に対してすら抑止力足り得ないのである。

3.アジアの大国中国に対する抑止効果


では、日本の最大の仮想敵国である中国に対する抑止効果はどうだろうか。はっきりいって、行使容認の前後で変化はないだろう。それは、現行で既に個別的自衛権に基づく片務的な日米安保条約が機能しているからだ。

集団的自衛権により、日本の自衛隊各隊が米軍をサポートできたとしても、米軍単独で対処可能な範囲の能力に大きな向上はない。むしろ日本側はそれをわずかに補完できる程度だろう。

安倍政権は米国の影響力低下を念頭に、日米安保による対処ではなく、日米安保+アセアン+2+オセアニア(豪州・ニュージーランド)等との共同戦線による抑止力強化を目指している。

が、肝心の米韓同盟の一角である韓国とは関係が最悪な状態のまま、アセアン諸国やオセアニア各国のとのみ軍事的な連携を強化しようとしている。

関係諸国での友和を図ることなく、結束を強化することには無理があるし、各国の軍事力を総合しても中国に対抗する軍事勢力にはなり得ないだろう。

逆にその中で日本の軍事力が抜きんでるのであれば、日本が各国防衛のために戦争に駆り出されることになる。これでは、日本が各国から得られる微々たる安全保障に比べ、日本が与える保障の負担が大きすぎる。

およそ、互恵的相互関係とはいえない。

むしろ、中国に敵対するのではなく、中国を総合的な地域安全保障の中に入れ込む位の発想が必要だろう。

よって、従来の集団的自衛の枠組みでは、いくら束になってもアジア各国の軍事力では中国に対抗し得ない。米軍の抑止力ならば、個別的自衛権が認められる現在でも十分に発揮されている。

それを「不十分」とするならば、米軍やアセアン諸国の寄せ集め連合軍よりも有効な対策を講じる必要があるだろう。最も堅実かつ現実的なのは、時間をかけて中国を地域的集団安全保障の枠組みに取込み、その中で逸脱した行為が戒められるようにすることだろう。

集団的自衛権の行使容認は、もはや現代において抑止効果を高めることには繋がらない。逆に各国の紛争に巻き込まれる蓋然性が高まるだけで、百歩譲っても、「百害あって一利しかない」としか評せない。その一利とは、「偽りの安全」という観念・心理的な安全である。

以上

これにて「集団的自衛権は、正しくも、必要も、抑止効果もない。」シリーズを終わりとする。

2014/07/01

祈念コラム:2014年7月1日 #集団的自衛権 容認閣議決定の日に思う



遂に我が国日本は、時代遅れの「20世紀の普通の国」になってしまった。

従来の集団自衛権による同盟ではなく、地域集団安全保障による国連を離れた集団安全保障体制が各地で構築されているなか、日本はこの時勢に「20世紀の同盟関係」の強化を図る。

第二次安倍内閣が念頭においてるのは、仮想敵国中国の封じ込めだ。

そのために、集団的自衛権容認をはじめ、各種法制を変え、事実上、「交戦権」の禁止と「国際紛争を解決する手段としての戦争」(「武力行使」ではない)を禁ずる平和憲法を解釈改憲することで、米国の要請に応え、日米同盟の強化に繋げることで、対中抑止力強化になると信じている。

愚の骨頂だ。

現行憲法下で我が国は、歴代政府見解の下、個別的自衛権を有し、第一義的な国防義務を負う自衛隊と、日本を防衛する片務的義務を持つ在日米軍との連携で成り立つ日米安保体制により国防を支えている。

集団的自衛権により日米安保体制が強化されるということは、実質的に現在の体制では中国を含めた周辺の脅威に対処できないことを認めるようなものだ。

つまり、日米安保の否定なのである。ここで疑問視されるべきなのは、ではこれまで何が有効だったのか、何が有効でなかったのか。何が有益で、何が無駄だったのかだ。

政府は国民に向けて、こうした説明を行っただろうか?否である。

突然、個別的自衛権ではあれができない、これができないと、15もの事例を出して、集団的自衛権が“必要”であるという「必要論」を展開したのである。それが意味する本当のことを隠しながら。

必要は、不足から生まれる。

何かが不足しているから“必要”なのであって、不足していないのに“必要”と主張するのは、詭弁である。むしろ、“必要である”というよりは“追加であったほうがよい”という程度ならば、それを「必要だから」と説明するのはもはや、詐欺の領域である。

そして、私たち日本国民はまんまとその詐欺の被害に遭った。
それが今日という日の意味である。

ただ、米側から、これを追加しろあれを追加しろと言われるがまま政府が応じた結果が今日なのか、それとも、米側から言われるままであるかのように装って実は、米側から言われてもいないのに日本側が勝手に、自らの目標を満たすために動いた結果が今日なのか、それはようとして知れない。

私は個人的には後者だと思っている。いわゆる「忖度する政治」を逆手にとった手法だ。

年末に日米協力の指針ガイドラインが改訂されれば、その結果は発表されるだろうが、その前段となった今回の閣議決定に至るまでの日米間の協議内容はおよそ把握できないし、報道もされないだろう。

米国の政府の公然の密使として、共和党制権時代の安保マフィアらが頻繁に往来し、日米同盟強化の「必要性」を喧伝する間、協議の骨格は日米国防・外務官僚の間で秘密裏に作られていったのだろうと推測する。これから行われる事務官級・閣僚級会議はその確認作業でしかない。

だが、集団的自衛権の「必要論」を持ち出したのが米側か日本側かの真相は明らかにされないまま、ガイドラインの改訂が実質的に進むだろう。そしてこれは、日米、いや世界の軍需産業界に対する安倍政権の歴史的手柄にされるだろう。

日本の平和主義が歴史的転換を迎えるこの日がもたらす変化、歴史に、現行政府はおそらく殆ど関与しないだろう。それほど長期に続く政権は過去になかったし、国民もこれほど好き勝手やる政権にいつまでも権力を握らせるほど魯鈍ではないと思う。

だがこの日、私たち日本国民は、国家を縛るべき憲法を、適正な手続きに則らずに塗り替えるフリーハンドを再び、時の政府に認める「前例」を作ったことになる。ひとつ前例が作られれば、後を継承する政権もまたその前例に倣うだろう。

立憲主義の崩壊である。

今日は、そのことの重さを噛みしめる日としたい。

2014.07.01

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集団的自衛権を巡る拙稿は、
十数編からなるこのシリーズを参照。

この一遍の祈念のコラムで述べたのは、
そのほんの片鱗に過ぎないことをお断りしておく。

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑬解釈改憲以上に危険なその「中身」

行政府の手続き上の暴挙は、1954年の自衛隊発足、日米安保締結に続き、その60年目にして、解釈改憲により武力行使の拡大を容認してしまったことにある。次に問題なのは、その中身である。

政府は武力行使要件を緩和することで、個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使要件をも緩和した。つまり"全般的に"国家の自衛権の行使要件が緩和されたことになる。

本来なら現行憲法に則った解釈ならば、たとえ改憲するとしても個別的自衛権の行使要件は維持しつつ、集団的自衛権の要件は独自に策定すべきだった。つまり、集団的自衛権だけの行使要件を作るべきだった。

だが、実際はどうか。

政府は、憲法が禁じる「国際紛争を解決する手段としての戦争」(=「武力行使」という政府見解)そのものを、より容易に行使可能な要件へと改変してしまったのである。

従来の自衛権行使の三要件は、急迫性、代替手段がないこと、比例した手段という、いわゆる古典的な自衛権行使の3要件(ウェブスター原則)を運用していた。新要件はこれを大きく緩和している。

政府がどのようにこれを適切な英語に訳出するのかは見ものだが、もし完璧な英語でこれを説明できるならば、そもそも三要件は米国側が提示したものだと考えれば筋が通るだろう。

法律用語の「急迫不正の侵害」(imminent and unlawful infringementは、英語では「不正」unlawfulとしている。つまり、国際法上の「不正」な行為であることが条件の一部を構成している。

これを新三要件の一つに当てはめると「明白な危険」(apparent dangerとなる。つまり、国際法上「不正」であるかにか関わらず、国家の自由解釈でそれが「危険」であるとする合理的な理由が(「明白」で)があれば、それだけで自衛権を行使し得るのである。

これは、「危険」なのが「明白」である理由を日本政府がいくらでも主張できることを意味する。しかもそれは法に則るものではなく、主権国家がそう考えるから武力行使は可能なのだという整理になってしまう。これではまるでどこかの無法者国家rogue stateのようだ。

さて、こんな曖昧な要件一つで武力行使ができないよう、あと2つ要件が設けられている。「他に代替手段のないこと」with no alternative meansは、つまり平和的・外交的手段が尽くされていることを意味する。

現実に「明白な危険」が存在し(注:国際法上の定義ではなく)、それが目前に迫っているのであれば、「警告している間がなかった」ことを言い訳に、"疑似先制的に"武力を行使することもできてしまう。

つまりはじめの法律的に曖昧な「明白な危険」という表現により、2つめの要件は殆ど存在しないも同然になる(切迫した目前の危機以外。例:ミサイルが発射され、数分から数十秒で着弾する場合等)。

これで2つの要件が潰れる。

最後の「比例した手段」proportional meansは、武力を行使する時に手段の大小の問題であって、既に武力行使は「できる」状態にあることが前提にある。なので、武器の使用(量)や、武器の種類(質)をいくら調整しようと、武力が行使されることには変わりない。

我が国が援用してきたウェブスター原則ですら、比例の原則は戦火拡大を抑制し得るものではない。使用兵器の強力化がなくても、現代の兵器の応酬は双方に十分な被害を生じ得るからだ。これは新三要件で「必要最低限」としようと同じことである。

「必要最低限」だか実際はそれなりの破壊力のある手段を、政府が恣意的に解釈できる「明白な危険」「代替的手段の不在」と合わせてしまえば、結果的に政府は自己裁量で自由に、強力な兵器で武力行使できてしまうことを意味するのだ。

以下、例を挙げてみよう。

近年の例でいえば、個別的自衛権の行使に基づく米国の対アフガニスタン武力行使が筆頭に挙げられる。

米本土内の商業ビルと政府の国防総省への民間航空機を利用した”テロ攻撃に対し、米国は海上・上空からトマホーク(大型巡航ミサイル)やデイジーカッター(燃料気化爆弾)でアフガニスタン本土を空爆してタリバン政権を崩壊させた。 

およそ「比例的な手段」とはいえない代物である。

日本が米国と歩を揃えて対テロ戦に望めば、米国の庇護のもと同じことが起こり得るのである。
原則から離れ国家の自己解釈に委ねるということは、かくもリスクの高い所業なのである。

これら3要件に加えて自衛権の運用を厳格化するには、要件適合の厳格な基準を設けるしかない。つまり、「明白な危険」の定義。「明白」の定義。「危険」の定義を法律で成文化することである。

与党公明党は、党内で受け入れられる表現として「明白な危険」を選んだが、それが単に言葉のニュアンスによるものか、明確な定義あってのことかは不明だ。だが、必要なのはそうした恣意的な解釈の幅を狭める厳格化なのである。

だが、今後より円滑に米国の軍事行動に参加したい日本側にとって、あるいは参加してほしい米側にとって果たして、要件の定義の厳格化は望ましいことだろうか。
おそらく、どちらも望まないだろう。

とくに米側が「望まない」のであれば、日本側には「望む」余地がない。したがって、今後の安保法制の整備の段階で、要件定義の厳格化が行われる可能性は低いと思ったほうがいいだろう。 これが、解釈改憲と同等あるいはそれ以上に危険な中身の問題である。

私たちは想像以上に、”寒い時代”を目前にしているのである。

以上、長文のご精読を感謝します。

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑫「自衛戦争」はどこから「侵略戦争」になるのか

もう一つ、「自衛のための戦争」を考える上で避けてとおれない(が、国内の議論ではまったく捨て置かれている)問題がある。

一国にとっての自衛の戦争は、相手国にとっては侵略戦争になりかねないということだ。

第二次安倍内閣の発足当初、安倍首相は国会答弁で「侵略」に関する国際法上の定義は確立されていないと答え、国際的に物議をかもした。国連総会決議3314をはじめ、日本が批准している国際刑事裁判所ローマ規程においても国家の犯罪としての「侵略犯罪」の定義は確立・合意されているからだ。

国連総会決議3314は拘束力のない総会決議ではあるが、その後の数々の国際協議を経て慣習国際法上もっとも確立された定義として合意され、2010年6月、国際刑事裁判所ローマ規程の再検討会議にて初めてその定義は122カ国により成文化された

この時の会議、カンパラ会議には、国際刑事裁判所規程の締約国である我が国日本の政府代表団も当然ながら参加していた。

日本政府はこの中で、驚くべきことに、侵略の定義とその罰則手続きについて、しぶしぶ賛同するという消極的賛成の姿勢を見せた。つまり、コンセンサスによる採択を阻害することはないが、積極的に賛成するものではないことを国際社会に表明したのである。

「極めて不承ながら、各国代表団が本改正案を現行のまま支持するというのであれば、日本政府はコンセンサスを妨げることはしない。」
— 小松一郎政府特別代表 (2010年国際刑事裁判所ローマ規程再検討会議にて)


現在、この改訂ローマ規程には14カ国が批准を済ませており、これらの国に対して国際刑事裁判所は「侵略犯罪」に対する管轄権を行使できる状態となっている。


我が国日本は、まだこれに批准しておらず、また当面批准する予定はないだろう。

2010年から4年が経過し、武力行使権限の拡大を図る第二次安倍内閣下では、国際的な履行責任のためにこの改訂に批准する可能性は低いとみられている。

が、そうした我が国の事情とは関係なく、遅くとも2017年には、「侵略犯罪」は国際刑事裁判所が裁ける国家の犯罪として成立する。そうなったら、責任履行を迫られるのは我が国の国家指導者や軍幹部だ。

「侵略犯罪」はあくまで国家の最高指導部において、侵略を企図する計画や実行が指揮されたか否かが問題となる。国家の立案した作戦に従って任務を遂行した兵士は罪には問われない。

かわりに上官責任が問われ、それは計画の実行者よりも、「侵略犯罪」を形成すると知っていて計画を行い、これを「実行させた」指揮官の責任を意味する。つまり自衛隊の場合は、最高指揮官=内閣総理大臣である。

いかに個別的・集団的自衛権の衣を被ろうと、その行動が「侵略行為」を構成するものであり、それを知りながら国家指導部がこれを指導したのならば、2017年以降は国家はその犯罪を問われることになるのである。このことに対する物理的・法制的・精神的・教育的備えが、この国はできていない。

いくら我が国が独自の武力行使三要件を持ち出して、「我が国の法制ではこれは正当な武力行使である」と主張しても、国際刑事裁判所に付託されればその正当性は国際法に照らして判断される。しかも国際司法裁判所のような強制力の「勧告」では済まない。国際犯罪に問われるのである。

果たして、この国の安全保障の中枢を担う、国家安全保障会議を始め、政府安保法制懇、連立与党首脳は、このことを認識しながら、集団的自衛権に関する議論を行ってきたのだろうか。大いに疑問であると言わざるを得ない。

まず政府首脳が「侵略」の国際法上の定義を知らないのだから、その教育から始めなければならない。

この国の国際法治概念は、おそろしく稚拙なレベルにとどまっているのである。そんな国に重大な安全保障上の決定を任せていることには「明白な危険」が存在していると、国民は自覚すべきだろう。

政府の新解釈の定義に沿うならば、日本国民こそ、現政権に対して集団的自衛権を行使すべきだろう。

洒落のようだが冗談ではない。

以上、長文のご精読を感謝します。

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑪ #集団的自衛権 と#集団安全保障 の違いとその悪用の歴史

これまでのシリーズで何度となくこの二つの概念について整理してきたと思うのだが、もっとも基本的な区別の話をしてなかったと思うので、一から紐解いてみよう。

集団的自衛権は「権利」、集団安全保障は「体制」


まず、集団的自衛権は「権利」であり、集団安全保障は「体制」である。前者が国家固有の権利とされている一方で、後者は国家の集まりが共通の脅威に対してとり得る体制を示している。

この理解がまず必要だろう。

集団安全保障に参加する国は、自然権としての個別及びも集団的自衛権を放棄したとみなされる訳ではなく、継続して保持している。ただし、集団安保措置に参加している間は、その権利を「行使している」とはみなされない。

部隊防護原則に基づく単独的自衛の権利


一方で「共同部隊防護」(政府的には「ユニット・セルフ・ディフェンス」)の概念がある。これは国家の自衛権とは区別して個々の部隊にあると慣習国際法上認められる単独的自衛の権利。その由来は個人の自衛権(正当防衛の権利)にある。

殆どの国において個人に正当防衛の権利が許されているように、それらの国の集合体であり「国家の自衛権の行使下にない」多国籍軍の部隊の個々の構成員にその権利があると考えられる。

これは国連のPKOや多国籍軍の場合は、その統合任務部隊の交戦規則(ROE)によって規則化される。たとえばアフガンで展開されているISAFにも独自のROEがある。(詳しくは以下シリーズ③④を参照) 

つまり、集団安全保障に参加する国家の要員は、国家の自衛権を保持しつつ、これを行使することを免れる。一方で、個人及び部隊の構成員として部隊防護のために単独的自衛を行う権利と義務を有するのである。

理解していただけただろうか?

集団安全保障が与えるのは「権限」


さて、集団安保という「体制」は慣習国際法により構成される国連システムによって可能となる。これにより加盟各国には集団安保措置としての武力行使に参加する「権限」が与えられるのである。その「権限」を付与するのか、安全保障理事会だ。

集団安保の中では、その構成員は特定の体制に所属する故の特権として、集団での武力行使を認められる。つまり、「通常ならば単独では認められない権限」なのである。

ややこしくなるが、またおさらいする。

基本認識: 国家の自衛権は限定的な権利


国連憲章第51条は、自然権として国家に個別的・集団的自衛の権利があることを認めた。但し、条件付きで。それは安保理が集団安保措置を決めるまでの間ということ。つまり限定的な権利なのである。

この限定的な権利を行使することは、通常は、安保理の集団安保措置がはじめられた時点で消滅する。通常は、というのはアメリカが自らアフガン攻撃などにおいて「例外」を作っているからだ。

日本は今後、この「例外」的な事態に付き合わされる可能性がある。

「日本国憲法は、国際法上合法な武力行使である、集団安全保障措置としての軍事的強制措置への参加を認めていない」というのが、これまでの我が国の政府見解だった。新見解は、集団的自衛権に関係なく、集団安全保障措置に参加できるとするものだがその理屈は不明だ。

集団安全保障措置に参加する場合は、制裁する側になるので、連合軍の一員として攻撃を通告することはあっても、国家として宣戦布告することはない。但し、国家単独で行動してよい訳でもない。だから統合本部の指揮権に服することになり、その交戦規則に拘束される。

おわりに


かつて日本はイラクやアフガンで、この指揮権の問題を回避するためにどの派遣でも連合軍の指揮下に入らなかった。憲法上認められれないという解釈があったからだ。だから直接戦闘行為には関わらず、「後方支援」や「復興支援」のみ行ってきた。

詭弁でしかないが。

何度も書くが、イラク戦争は国連に認められた武力行使とは言い難い一方で、アフガン戦争は自衛のための戦争であり、我が国は憲法上疑義のある2つの戦争に既に「時の政府の解釈」により参戦してきているのである。(以下シリーズ⑩を参照)


これは今後、劣化する一方だろう。

どれだけ限定的に解釈・行使しようとも、既に「時の政府」による誤った判断の歴史は刻まれている。

今回の閣議決定による解釈改憲の後で、厳密に「限定的な権利の行使」など期待するべくもない。

我々平和を尊ぶ国民は、集団的自衛権容認反対を叫びつづけなければならない。

以上、長文のご精読を感謝します。

2014/06/23

長編コラム: 些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑩解釈改憲の問題の本質

2014/6/22のインタビュー記事で民主党の岡田克也最高顧問が語った内容は、政府の些末な議論の中で失われ、忘れ去られようとしている解釈改憲問題の本質を突いている。それは、新解釈により平和憲法の基本原則が損なわれているということだ。つまり、政府は解釈改憲の域を超えた新解釈を認めさせようとしている。

「個別的自衛権は日本自身が侵略を受けた、攻撃を受けたというときに反撃する権利ですね。集団的自衛権が認められるとしたら、それに匹敵するような事態であることが、憲法が許容する大前提」岡田克也民主党最高顧問
https://www.facebook.com/GivingTreeIntnl/posts/10152623179292089

基本認識:自衛隊や日米安保は違憲ではない


自衛隊の発足と日米安保の締結後、歴代政府は①自衛隊が憲法が禁止する「戦力」ではないこと、そして②日米安保が双務的ではなく、かつ、憲法が禁止する集団的自衛の権利を認めるものではないことを政府見解として維持してきた。

自衛隊と安保の存在自体を違憲とする考えもあるが、個別的自衛権は国家固有の権利であるだけでなく、国際法上、主権国家としての要件を備えるために履行が必要な義務でもある。即ち、領土・国民・機能する政府の三要件である。

「機能する政府」とは、領土と国民を保護する機能を有する政体を意味する。即ち、主権国家は何らかの手段で領土と国民を守れなければらない。我が国は、専守防衛に基づく国防に必要な最低限の実力組織として自衛隊を保有し、これを補完する勢力として在日米軍を擁している。

日米安保は、我が国の国防力を補完及び監視するために、旧連合国である米国が我が国と締結した片務的な安全保障条約である。米軍側に我が国を守る一方的な役割が課せられるため、その代価として我が国は在日米軍の駐留費の大半を負担するなどして、米国に格別な配慮を行ってきた。

違憲性が疑われる現在の自衛隊の活動


日米安保や自衛隊の位置付けは、国際情勢と米国の世界戦略の変遷の中で同様に変わってきた。50年に勃発した朝鮮戦争では、自衛隊の前身である保安隊が掃海作業のため極秘裏に派遣され死傷者まで出して戦線に貢献した。冷戦終結後、自衛隊の役割をさらに変容した。

01年の対米同時多発テロにより、自衛隊は「対テロ戦争」という非対称的な、新たな形の世界規模の戦争に巻き込まれていくことになった。91年の湾岸戦争には自衛隊派兵禁止の原則を固持し経済支援に終始したが、これを国際的に非難された結果、対テロ戦争では軍事的貢献も行うようになった。

これに先立ち92年にはPKO協力法が成立し自衛隊の本来任務に国防・災害救援に加えて国際平和協力が盛り込まれていた。政府はこのPKOに限定されている筈の国際平和協力任務の解釈を徐々に拡大し、特措法により安保理決議に基づく集団安全保障措置に参加するようになった。

対テロ戦争の口火を切った01年のアフガン戦争で我が国は、直接の戦闘行為に加担する派兵は行わないものの、インド洋で個別手自衛権の行使の下に展開される米英の軍事作戦「不朽の自由作戦」の“後方支援”を行うことで、事実上、軍事兵站支援を通じて自衛戦争に加担した。

政府はインド洋の給油支援は「非戦闘地域」で行われているものであり、また国連に“容認”された活動であることから、憲法が禁じる「武力行使との一体化」はないとして正当化した。そして03年にはイラク戦争後、同様の論理で初めて紛争地域に自衛隊を派遣した。

このように、自衛隊の本来任務は国防・災害救援・国際平和協力の筈なのに、憲法上疑義のある国際活動に政府は次々と特措法を制定して参加するようになり、本来の任務と自衛隊が行う活動の間が乖離するようなってきたのである。

その間、日米安保は、北朝鮮によるミサイル演習への共同対処(09年)や、東日本大震災における米軍の災害救援活動等(11年)の形で有意に機能するものとして現れたが、一方で自衛隊が果たす役割と機能は、米国の世界戦略の中で激しく変容していった。

現時点で既に、自衛隊の活動は数々の特措法により、現行法体系が定める以上の範囲に拡がっている。

たとえば09年には初めて、恒久法としての海賊対処法により、ソマリア沖海賊対処のために海上自衛隊の護衛艦が派遣され、各国部隊との連携を深め、11年にはその活動拠点として初めてジプチに独自の基地を建設するに至った。

海自の派遣と基地建設は全て、国連安保理決議に基づくものだが、本来自衛隊が憲法上許されている行為を逸脱しているという議論は、国会内では経済的・人道的利益優先のためという否定しがたい理由により封殺された。

09年の政権交代後、インド洋の給油支援は、武力行使との一体化の懸念のためその効力を停止されたが、09年政権交代直前に自公政権により制定された海賊対処法は依然有効なまま現在に至る。

このように、自衛隊や日米安保そのものは違憲でなくても、その運用が違憲である可能性のある状態が続いているのである。現在の解釈改憲論議は、その流れの中で起きている暴挙なのであることを認識する必要がある。

変化を追認・拡大する暴挙を止められるのは司法のみか


自衛隊の機能と役割が既に憲法を逸脱して変容する中で、追認的にこれをより一層拡大しようとするのが、現在の議論である。つまり国防等の本来任務のみならず、自衛隊の役割を超えた範囲で武力行使を認めさせようとする議論なのである。

現在の議論は、解釈改憲の域を離れ、国際紛争解決のための武力行使を禁じ、唯一国防のためのみに自衛権の行使を認める憲法の原則を侵している。この重大な侵害行為を、時の政府に任ぜられた内閣法制局のトップは合憲であるとして追認している――立憲主義の崩壊である。

内閣法制局容認の閣議決定では、法制化の審議の過程で違憲立法審査権を持つ最高裁は介入できない。審査権は法案ではなく、成立・施行後の法律に対して行われるものだから、事実上司法の歯止めは機能しない。閣議決定による解釈改憲は、立憲主義の弱点を突いた暴挙なのである。

「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人の一人である加藤朗教授が、「集団的自衛権容認反対派は敗北した」と最新のブログで漏らしていた。政府の個別具体的な事例を個別具体的に各個撃破できなかったから、結果的に政府を利することになり、統一を欠いた国民的な反対運動は挫折に終わるという。

しかし、内閣法制局は内閣内のチェック機能であり、最終的な違憲審査権は独立した司法の最高裁にある。

最高裁の改選人事については、先の総選挙で有権者である私たち国民が介入している。しかし、有権者は果たして賢明な選択を行ったのであろうか。

次期国会で、恐らく改造内閣により関連閣法が全て国会を通過したとき、あらためて、私たち有権者の判断が賢明であったか否かが形となって現れる。

それまでに何ができることはあるのか、私は最後まで考え続けたいと思う。

長文のご精読をありがとうございました。